深沢のYはしがないか菓子工場で働くしがない女工である。社長も含めて100人いる工員の中の百番目だ。女工の仕事は機械から吐き出されるいもり型のビスケットを手早く12個入りの箱に詰めること。遅ければ叱られるし、ひとつ多くても少なくても計量のブザーが鳴って、その人の頭に盥が落ちてくる仕組みだ。Yは4時に起きて自分の弁当と3人の子供と5人の孫の分を作るから(まるで小さな弁当屋)いつも寝不足だ。その分早く眠れば良さそうなものだが、本を読むことが唯一の趣味なのでなかなか早くは寝ないのだ。頭に盥が落ちる音が工場内に響き渡ると、すぐ工場長兼社長が飛んできてこう言う。
「困るね深沢のYさん。また居眠りですか。あなたはこの工場で一番のベテランなのに順番は常に百番です。だからほら、盥もベコベコに凹んで、この頃は変な音がします。ですから事務所にいてもあなたの盥だとすぐ分かります。居眠りは一日三回までにしてください」
そう言いながらロープを引っ張ってまた盥を上げる。工場長兼社長はこのように辟易した表情を見せるが、実際は悪くない。というのは盥の数で給料が決まるのでYは入社当時から百円も上がっていない百番だ。更衣室と工場を繋ぐ廊下にはカレンダーの裏に書かれた当月の盥数が棒グラフで掲示されているが、Yのだけ筍のように毎月伸びる。一枚で足りないで二枚目を継ぎ足すこともある。その前を朝と夕とYは肩をすぼめて下を向き速足で通り過ぎる。そんな百番のYと飯豊を闊歩する猪使いで巫女のYがいくら様子がそっくりでも同一人物であるわけはないが、それにしても似過ぎている。栄養の違いでわずかの大小はある気がするが、双子でない限りこの相似はあり得ない。
「君には一卵性の双子の姉妹がいないのだろうか」
ある時私は堤防を一緒に走りながら聞いてみた。
「十三の時に生き別れた妹がいるかもしれないしいないかもしれません」
「どっち?」
「どっちと聞かれても困ります困ります」
つまり有耶無耶のままである。一卵性の双子であれば以心伝心、遠く離れていても念じれば通じる。
「時々は思い出しますか」
「辛い時は思い出します。辛くない時も思い出します」
「辛い時は盥が頭にぶつかる時ですか」
「いいえ、それはつらい時ではなく痛い時です。私の盥は凹凸が激しくて、凸の所が尖っています。だからそこが当たるとひどく痛いです。でも盥が無いと私、仕事ができないので盥は良いシステムです。もし盥がなかったらずっと立ったまま寝てしまってお給料もいただけません」
風の音と、すぐ下の道を通る車の音で聞き取り難かったが、概ねこんな返事だった。盥の当たり過ぎで頭が弱っているのかもしれない。
「読書もほどほどにしてなるべく早く眠ったらどうでしょう」
「それは無理です。本が無かったらこの世界はつまらない、生きるに価しません。だって本があるから私江戸時代のお侍にもなれるしコンゴの芋虫料理も食べれます」
そして彼女の帽子が風に飛んだ。常に頭に刺激を受けているので髪の毛がふさふさで、帽子を深く被れないのだろう。
「タオルで帽子を縛ったらどうですか」
「そうそう、そうして顎の下で結んで」
そうは言ったが、珍妙な感じになったので、他のランナーとすれ違わなければ良いがと思いながら走った。
ヒメサユリの時期は短いから、その短い花の時期が終われば関心は失せ、話題にも上らなくなる。私も日々の雑事に忙殺されて、猪が光兎山に登ったかどうか、そしてY似のY、つまり猪使いの巫女がそれを追って登ったかは確かめなかった。光兎のヒメサユリが散ってしまえば梅雨になり、そして夏が来る。