オッド・アイTの猫とその一味第44話「飯豊連峰保安局員」の巻

長者平に咲くヒメサユリも少なくなった。水汲みの合間に時々足を運んだが、いくつも見られなかった。それも猪の仕業だと思うと、やはり全面的に同情する気にはなれない。猪の腹に手を置き、その振動に同調しても気持ちまでは同調できなかったというわけだ。それで猪を起こして水汲みに連れていくことにした。そうすればいくらかでも同情的になれるかと思ったからである。鼻黒医師も同行した。水場のもっと下まで行けばカニコウモリが生えているかも知れないと言う。確かにカニコウモリの葉っぱなら蟹の甲羅にそっくりだから蟹券にするのに相応しい。猪は下りが苦手なのか何度も滑って沢や藪に転げ落ちた。ただ手足が短く体全体でその衝撃を受けるので、骨折はしないようだ。水場にもトボンと落ちて一番に到着したが、水は飲めても水は汲めない。猪には水を容器に汲んで運ぶという文化が無いのだ。手が痺れるほど冷たい水を大五郎二本に満タンにして、猪の首に掛けて登り始めたが、すぐずり落ちた。猪は首が明瞭でなく、頭と肩が真直ぐ繋がって、鞍部というものがない。結局大五郎は私が首から下げて、猪は水を飲むためだけに往復したので、一向同情的にはなれなかった。

 小屋に着いた時、空は急に暗くなり雷鳴が鳴りだした。いかにも大物登場の前触れだが、朳差の頂上に偵察に行ったはずのバカンスとバケーションが戻ってこない。雷に打たれて丸焦げになって倒れている二人を想像できたので、偵察の偵察に猪に行ってほしかったが、また仰向けに寝て震えている。前世はよほど臆病で怠け者だったのだろう。ただこれでは串刺しにされるのを待っているようなものだ。すると小屋の中からバカンスとバケーションの声がした。中を覗くと窓の外を見ている二人は鉾立峰の方を指さして誰か来たと言う。Y似の猪使いの巫女は斜面を平地のように大股で歩いていた。そして手に持った長い棒を振り回して草むらを叩き、猪が潜んでいれば追い出そうとしている。仰向けで震えている猪をそのままにもしておけないとまた外に出たが、もはや逃げてトイレの脇のニッコウキスゲの花が盛んに揺れていた。

 私らが小屋の窓から見ていることに気付かないのか、Y似で猪使いの巫女は小屋の前まで来ると持っていた猪串刺し用の長い棒を藪の中に放り投げ、ポケットから出した帽子を被って一般的な登山者の恰好を装った。私は隠れている猪にその事を伝えたかったが、Y似で猪使いの巫女は既に玄関の戸を開けた。そして積んである大五郎の一本を手に取ると、頭上にかざしてラッパ飲みし、4ℓを一気に飲んだ。

「ご苦労様です。私は飯豊連峰保安局のたなかかなたです。たなかは普通の田中、かたなは遥かと書いてかなたと読みます。お察しの通し上から読んでも下から読んでもたなかかなたです」

棒を振り回しながらとんでもない嘘を考えてきたものだと感心したが、嘘という概念がないバカンスとバケーションはまるきり信じてしまったようだ。

「ところで私は一匹の猪を追いかけてここに来ました。その猪は梅花皮小屋の管理さんのSさんの尻に10㎝の穴を空け、門内では売り物のビールを全部の飲み、頼母木の小屋ではKさんの食料をほぼ食い荒らしました。Kさんは次の交替が来るまでバナナに見立てたニッコウキスゲと水だけ飲んで耐え凌げるでしょうか。猪を見たなら正直に言ってください。もし隠していたら、耳があるならその耳を切ります」

バカンスとバケーションが両耳を隠したので、猪の存在は察知された。そしてY似で猪使いの巫女が外に出るとすぐ猪の悲鳴が聞こえたのである。

猪は棒の先端にぐるぐる巻きにされた。Y似で猪使いの巫女は旗を掲げるようにそれを持って朳差に登り、頂上の標柱の脇に突き刺した。猪がじたばたすると棒もしなるので、基礎のしっかりした「朳差岳一六三六m」の標柱に縛りつけたのである。

「こうしておけば隠れている仲間が助けに来ます。猪は三匹一セットで串刺しにするので最低もう二匹は捕まえないといけません。私は飯豊連峰捜査局の田中遥です」

そう言いながら鳴き続ける猪を満足気に見上げた。猪にとってみればこのまま旗のようになっていたのでは長くは持たないし、仲間が助けに来た時には三匹まとめて串刺しにされるうちの一匹ということになる。うっとりし続けた代償は大きいということだ。

 するとそこに蟹券を沢山持った鼻黒医師がやってきた。時間が掛かったので水場からだいぶ下まで下ったのだろう。