雪の中の郵便夫は雪が解けるまで見つからない。そんな犠牲が無くては七月が来なくて、ヒメサユリも咲かないのだろう。そんな気がした。
私は朳差岳に登りながら振り返り振り返りして、小屋をあとにするY似で猪使いの巫女を見送った。もしかすると、と私は思うのである。私の本身が別にあって、私が放浪する半身としてここにあるように、Y似で猪使いの巫女はしがない工女の分身ではなかろうか。しがない工女は未明に光兎山に登り、子供が起きる前に戻るような生活をしていたと聞く。Y似で猪使いの巫女が光兎山を語る口吻が、しがない工場で働くしがない女工のそれに似ているように思えてならなかった。Y似で猪使いの巫女の姿が鉾立峰の後ろに隠れたあと、目を転じて関川村の方を眺め、屈託の多かろう私の本身やしがない女工の生活を思った。
次の水汲みのために小屋に戻ると、昼寝をしていたバカンスとバケーションが出てきて、ニッコウキスゲの花に鼻を入れていた。寝起きのぼうとした頭にすっと風が吹き込むようなのだと言う。危機が去り、藪から出てきた猪がそれを見ていると、片方の鼻黒はニッコウキスゲの花を地面に近づけて、猪の鼻に擦り付けた。猪の鼻は鼻黒以上にてらてらと濡れているので、ペンキを塗ったような黄色になった。その猪を連れて水汲みに行く。ニッコウキスゲの花粉の効果なのか、登りの調子が良い。タニウツギの鞭を使わなくとも進んだが、突然動かなくなった猪の鼻を見ると、鼻水か汗のせいで黄色が斑になっている。私は傍らのニッコウキスゲの花をもいで猪の鼻に押し付け、むらなく黄色にした。そして登りながら聞いてみた。
「君は名前はなんだい」
「猪で良いです」
「猪は沢山いるからね」
「猪仲間では二宮尊徳と呼ばれています」
「二宮尊徳は別にいるから、ホリディではどうです」
「それは苗字ですか名前ですか」
「苗字はジュライです」
「ジュライホリディでいいです」
猪の世界では、自分と仲間の名前の他には、美味しい物と美味しくない物、強い奴と強くない奴という名前しかないそうだ。つまり強い奴に追われて強くない奴に助けられ、美味しくはない物を運んで美味しい物を食べるのが彼の現況となる。
「これにはニッコウキスゲという名前がついています。この形で黄色いのはニッコウキスゲです」
私はバカンスとバケーションにそうしたように、すべてに名前があることを教えようとした。
「ニッコウキスゲは美味しい物ですか美味しくない物ですか」
「美味しくない物です」
猪には沢山の名前は必要ないようだった。
食客が増えて鼻黒医師は忙しくなったが、管理人室には食料が無尽蔵に備蓄されているようだった。桃源郷には争いがあってはならないし食料の心配も無用だ。それは物語で保障されていると鼻黒医師は言う。
「命があっても形があってもいずれ失われます。それはここでも同じですが、それを忘れさせるくらいずっと七月です」
我々は多分そのずっと七月を満喫していた。