オッド・アイTの猫とその一味第48話「旅は道連れ」

朳差という桃源郷で唯一不足なことは風呂がないことだ。一生涯風呂に入らず、最も不潔と思われたホリデイは水汲みの度に水場に落ちるので、むしろ最も衛生的だ。ホリデイ以外、七月とはいえ冷たい水場に進んで入ることは無理だ。だから驟雨が来た時に小屋の中に居れば、シャンプーと石鹸を持って外に飛び出す。驟雨が長ければホリデイにもシャンプーをつけて泡だらけにする。雨の中、泡の中から一匹の猪が出現するのは面白い。ただ猪はシャンプーを好まないようだ。自分には自分の匂いがあって、他には他の匂いがあるから名前は要らないのだという。つまり匂いですべてを識別するらしい。

「一度嗅げば忘れることはありません。そして山ひとつ先でも分かります。山三つ先の強い奴を嗅ぐことができる仲間もいます。でも団子のひとつになってしまいました」

「強い奴はどんな匂いですか」

「チョコレートやークッキーや、いろんなお菓子の匂いです」

なるほどね、そう思って私は大五郎の水を猪に掛けた。雨が途中で止むと、こうして泡を落とすのである。

「君らはヒメサユリとともに滅亡するかもね」
「でもそれはここの猪の宿命です。この山で一番美味しいものが目標ですから」

「そうか。私もフルとハーフと10キロがあればフルを走らなければ気が済まないからね」

「そういうレベルではないです」

「あっそう」

ずっと七月は結構だが、ずっと七月なら花に実はつかない。その徒花を集めて猪の鼻に擦り付ける。水場からの登り、タニウツギを振り回したりニッコウキスゲを摘んだりしながら私は聞いてみる。

「君の前世はなんだろうか」

「僕はまるきりぐうたらな人間だった。ぐうたらで臆病なくせに自尊心ばかり強くて、いつも歯ぎしりしていたら、ある日猪になっていた」

「残念かい、それとも本望」

「分からない。分からないけど、残念でもないし本望でもないのは確かさ。生まれ変わっても性根は変わらない。臆病な俺だから串刺しの丸焼きにもならず生き延びている」

そんなホリディと私が飯豊連峰の反対側、種蒔山の向こうの三国の小屋まで行くことになった経緯は随時説明しよう。ただ、鉾立峰から先は冬山で、冬の装備は持ってこなかったと言ったらば

「ここと同じ想定で行きましょう。特に支障はないです」と鼻黒医師は答えた。

「但し、鉾立と大石山の間だけはまだ冬なので、そこを通る時は郵便夫を掘り出して、彼もいっしょに連れて行ってください」

私はテント泊縦走用の90ℓのザックを担いで出発した。ホリディの背中にはスコップを括りつけた。

鉾立峰に着いて振り返ると、朳差の頂上に人が立っていて、手を振っているように見えた。バカンスとバケーションだとしたら、ずっとそこで見送っていたことになる。

「ハリギリハマナスハリエンジュ、ナツメタラノキアリドオシ、サンショウサンザシサルトリイバラ、カラタチサイカチピラカンサス」

スコップを担いだ猪は大きい声でそう唱えた。出発に際し、鼻黒医師はこう教えたのである。

「朳差から三国岳まで大小15のピークがあります。その一つ一つに登る度に棘のある木の名を唱えれば厄除け魔除けの呪文になります」

猪の記憶力に感心しながら私も唱えようとしたが、出だしさえ思い出せない。呪文係はホリデイだ。

「行くぞ呪文係」

尻込みする猪の尻を押し、続いて私も雪の急斜面を降りていく。アイゼンもピッケルも無くてストックだけでは心もとないが、たとえ滑っても鞍部で止まると思えば腹は決まる。その鞍部にほどなく着いて私らは郵便夫を探した。体の一部でも雪から出ていたら、スコップで掘り出そうというのだが、一見して諦めた。夏なら笹とミネザクラとドウダンツツジの低灌木で一面覆われているが、見渡す限り白一色、諦めて進むのに時間は掛からなかった。

「そのスコップは頼母木の小屋に預けていこう。それまで落とすなよ」

急坂を登り返して大石山。

「ハリギリハマナスハリエンジュ、ナツメタラノキアリドオシ、サンショウサンザシサルトリイバラ、カラタチサイカチピラカンサス」

呪文係に呪文を促して出発、そこから先は夏山で、ヒメサユリを除けば百花繚乱の道を辿る。途中砂地に咲くイブキジャコウソウに猪は関心を示した。目線が低いので、這うように咲く花だけしか目に入らないのかもしれない。クンクン嗅いで離れないので、担いだスコップの金属の部分をストックで叩くと、渋々歩き始めた。頼母木小屋の前で猪の背中からスコップを外した。これから先もイブキジャコウソウはあるだろうが、落として失くしてもつまらない。

「あなた方は朳差小屋の猪と人間ですか」

小屋から出てきた男が言った。

「そうです。朳差岳小屋から来ました」

「やっぱりね。だったらこれを渡します。この手紙を人間の方に渡します」

「郵便夫から預かりましたか」

「いや私が郵便夫です」

「ここの管理人では」

「いや、管理人は朝から足ノ松尾根の水場の道を直しに行きました。私は留守を頼まれた郵便夫です」

「分かりました。ありがとう」

「これで朳差まで行かなくて済みます。巫女の言う通りでした」

「巫女がそう言いました」

「そうです。私が大石山と鉾立の鞍部で疲労困憊して倒れた時に、通りかかった巫女が言いました。その手紙の宛名の人物はいずれ頼母木小屋に来るから、頼母木小屋で待っていれば万事うまく進む。だから頼母木小屋まで死に物狂いで歩けと。でも結局最後は担がれました。担いで小屋まで運んでくれました」

飯豊主稜線では頼母木の小屋が最も水の便が良い。半キロ先の山の斜面の湧水を塩ビ管を繋いで小屋の調理場まで引いている。その水をがぶがぶ飲みながら

「もし郵便夫が生きていたなら、我々と同行させるようにと。巫女はそのことは言いませんでしたか」

「私はアルバイトの郵便係なので、その手紙を渡してしまえば終わりです。条件次第で同行します」

「多分、貴方が難儀した雪山は大石山と鉾立峰のあそこだけです。これからずっと夏山です。貴方は蟹が好きですか」