オッド・アイ Tの猫とその一味 第28話「探偵の報酬②飯豊猪命の会」

以前5月の末に光兎山のヒメサユリを見る登山を公民館事業としてやったことがあったが、この時は何輪も咲いてなくて、おまけに天気予報も外れて参加者には申し訳なかった。もちろん下見もしているが、バスをお願いしていることもあるし参加者の都合もあるから、まだ早いと思っても日程は変えられない。それから何年かした後、今度は6月の初めに計画したヒメサユリ登山は満開で天気も良く大成功だったが、それもたまたま運が良かっただけ、年によって違う開花期を予想して何ヶ月も前に日程を決めるのは難しい。難しいから大体6月最初の週末と決めている。しかし、今年は花が早い。桜も例年より一週間から十日早かった。今年ユメサユリの行事はないけれど、光兎山から吹き下ろしてくる風にその香りが混じっているような気がして早朝に出かけた。

ユメサユリの美しさは現実的ではない。雪解けからわずか二ヶ月、どうしてこんな痩せた土からこんな花が咲くのか、不思議で、そして奇跡だ。むしろ幻だと思った方が納得できる。幻で良い。その幻は毎年この時期に出現する。

ただ、当たり前だとさえ思わないくらい当たり前のことを突然失うことは良くあることだ。良くあることなのにやはり覚悟はできていない。ただただ打ちのめされるだけだ。私の足を自ずと速めていたのはひとつの不安だった。それは猪が光兎山のヒメサユリまで侵していないかということだ。飯豊でさんざん食い荒らし、その結果巫女で猪使いのYに退治された猪の残党が新天地を求めて光兎山に登っても不思議ではない。彼らの鼻が私より敏感なら、とうに風の中に花の匂いを嗅ぎ、その出所に向かったであろう。

私は時々後ろを気にしながら速足で急いだが、分岐を過ぎてブナ林が始まるとどうしても写真を撮らずにはおれない。アングルを変えて何枚も写真を撮りながら後ろからの追跡者を警戒する。それは探偵事務所の三人のいずれかも知れないし、その他かも知れない。その他であるなら三人がその他の人間になっているのかもしれない。夢想に過ぎないのではっきりは覚えていないが北岳にはセニョリータ田町とスキップ鼻黒もついてきた。ついてきて間ノ岳までも登った。もし、今回もついてくるようなことがあれば、ブナの巨木の陰から飛び出して脅かしてやろうと思っていたが、写真を撮って停滞しても後ろに人の来る気配はない。気の利いた読者なら登場人物を列記して、その相関関係を図示しているかもしれないが、鼻黒族と猪、そしてYの関係は分からないだろう。飯豊のYと女工のYの関係も不明だが、もし光兎のヒメサユリに一株の被害でも見つかれば、女工のYに知らせなければならない。連絡は分からないが、いずれ早急に飯豊のYに伝わって、光兎に入り込んだ猪も散々な目に遭うだろう。いずれにせよ急がないといけない。茂吉の歌を借りれば、ひと目見んとぞただに急げる、そんな心持でありながら写真も撮り続けた。

虚空蔵峰を過ぎて観音峰までぶな林が美しい。ようやく緑に定まった新緑がいっそうブナの木のまだら模様を引き立てる。白いイワカガミがまだ沢山咲いていた。まだ雪の残る谷地を左に見て小さな無名峰を越えて下る辺り、なぜここだけ白いのが多いのか。観音峰から先で一旦水場のある鞍部に下り、そこから雷峰への急坂が始まるが、そこに一本、花が終わって実をつけたカタクリに混じって、まだ硬い蕾のヒメサユリが立っていた。道が尾根筋に出ると、湯蔵山の後ろに連なる飯豊の白い山々が遠く望まれる。そして雷峰に着く直前、ヒメサユリ、一輪、二輪、桃色の花弁を広げて咲いていた。ここで咲いていれば、ここから先はもう花期を迎えている。はやる気持ちを抑えて慎重に下る雷峰の先の崖にも桃色の花弁が待っていた。そしてここから先がヒメサユリの道になる。

木も草も花の時期だけ個性を主張する。藤も桐もウワミズザクラも谷空木も花の時期だけ目立って見せて、あとは緑の中に埋もれてしまうが、ヒメサユリも今の一時だけ緑の中に桃色の花弁を広げて自らの存在を知らしめる。この季節が終われば誰も見ない見つけられない草となる。姥石、そして与平戻しの頭と蕾も増し、開花している花も多くなり、興奮を抑えながらシャッターを押し続ける。掘られた株もなく折られた茎もなく、一層喜んだのである。すると突然、藪から人が出てきた。登山口に既に一台停まっていた先行者であろうかと思ったが、鼻黒猫だ。

「ごきげんよう」

「おはようございます」と言いながら顔を見ると鼻黒スキップのような、日記係のような。

「先回りし過ぎて迷ってしまいました」

「先回りですか」

「はい、我々は常に懐疑的です。一本道でも時々懐疑的になって道を外れて用を足します。そすると道の意味が分かりますし更に懐疑的になります」

 つまりは催して脱糞していたのだ。日記係かスキップか、はたまたラーメン店主か、どんなにうまく人間に化けても鼻さえ見ればそれと分かる。それが変身の限界なのか、鼻黒こそが鼻黒族の象徴でありプライドなのか、鼻黒は鼻黒のまま、私のように鼻黒慣れするとその微妙な濃淡、黒塩梅で個体さえも特定できる。

私は仔細に鼻黒を眺めた。すると鼻黒は手で鼻を隠してこう言った。

「どうぞお先に私はまた道を外れて懐疑的になります」

「どうして鼻を隠しますか」

「それはまだ見せられる鼻でないからです」

「どういう鼻が見せられる鼻ですか」

「それは自分の始末を自分でつけられて人のことをとやかく言わなくなれば見せられる鼻になります」

「それは難しいですか」

「難しいです。自分の始末を自分でつけられるようになれば人のことをとやかく言う必要もなくなるのですが、自分の始末もできないうちはどうしても人のことをとやかく言いたがるからです」
「ではどうしたら自分の始末を自分でつけられるようになりますか」

「それは自分と同等か自分以下の人間に混じって観察することです。貴方を観察していると昨日の自分を見ているようで納得できます。つまり一日は長じているので自信がつきます。そうしてなるべく早く自分の始末を自分でできるようになって堂々と鼻黒を見せられるようになりたいものです」

「それまでは鼻を隠しますか」

「はいそれまでは鼻を隠します」

「でも鼻を隠せば未熟だと分かりますよ」

「そうです。でもこれが一種の礼儀なのでそうします。その点あなた方は結構です。中身が浅薄でも黙っていれば見た目は変わりません。でも浅薄な人間ほど喋るので鼻を隠すのと同じことですね」

私はなぜか鼻を隠したい気持ちで鼻黒猫の脇を通って先を急いだ。そして次から次へと現れるヒメサユリの花に欣喜雀躍する心を抑えてシャッターを押し、時々後ろを振り返ったが、鼻黒がついてくる気配はなかった。また藪に入ったのかもしれない。花を追って遂に頂となる。花は頂上直前まで咲いていた。頂から振り返ると、雷峰に休んでいる人がいる。それが鼻黒かどうかはさすがに分からないが、他に登ってくる者もないので、鼻黒猫は既に登頂して下山中だったのだ。開花の具合を猪達に教える?そんな疑念がまた浮かぶ。開花していればユメサユリは一目瞭然、その茎を掘れば球根に辿り着く。花の多寡、開花状況を鼻黒が伝えると大挙して猪達は登ってくる。その情報の代償も二族の関係も推し量れないが、どうも嫌な予感がする。嫌な予感はほぼ当たるのが私の人生であったから、頂上で食べようと思って昨日買った握り飯を包装紙から出すのさえもどかしく、バナナを一本口に頬ばると、その皮を藪に放り投げながら出発した。鼻黒猫に追いつき交渉しようと思ったのである。

鼻黒猫は観音峰の手前、水場に下る鞍部で寝ていた。あれから下ってここで寝ていたとすると相当な時間寝ていたことになる。

「水でも汲んできましたか」

「そうです。でも水場の沢はまだ硬い雪に深く埋まっていたので、その雪を削って袋に入れて、こうして腹の上に乗せて溶かしています。火照った体は冷え、雪は解けて一石二鳥です。この時期の光兎山はうまくできています」

「猪にヒメサユリの状況を伝える、その報酬はなんですか」

「それは秘密の秘密です」

「なぜ秘密ですか」

「これまでどれだけ耐えてきたか、そしてこれからどれだけ耐えられるか、その覚悟のない人に教えても何の報酬も期待できないからです」

「ではその報酬に価するものを教えてください。そうしなければその袋を鼻の上にのせますよ」

 

「困ります、困ります、鼻の上にのせるのは大変困ります」

「どうして困りますか」

「鼻が冷えても熱くなっても困ります」

「では教えてください」

「お察しのとおり飯豊猪命の会からの依頼で調査に来ました。その報酬の代償となるとすればあなたがお持ちの尊徳です」

「尊徳というと二宮尊徳の頭ですか」

「そうですそれです。それを渡してくださればこの山のヒメサユリのことは秘密の秘密にするでしょう」

「なぜ尊徳の頭を欲しがりますか」

「それは同じ理由であなたに言っても無意味です」

私は少し乱暴だと思ったが、雪の入ったビニール袋を鼻黒の腹から鼻の上に移して歩き始めた。そして観音峰を登り返しながら振り返ると、ぶなとぶなの間にビニール袋を顔に載せたままの鼻黒が見えた。袋の雪が完全に溶けて、その水の温度が上がるまで鼻黒は動けないだろう。私は観音峰の祠の前で握り飯をほおばりながらYにラインした。

「光兎山のヒメサユリ、今週末には見頃!飯豊猪命の会の猪に知られる前に別のYに連絡してください。今日も女工の仕事頑張ってください。よろしく哀愁!」

そして両手を回しながら下山した。やさしかった夢にはぐれず 瞼を閉じて帰ろ 思い出の道をひとすじ

瞼を閉じて山を歩くのは危険であるが、それでも両手を回して帰ろ 揺れながら。「困ります、困ります」が本当かどうかは分からない、ああやって鼻を冷やされて動けないのも演技かもしれないが・・・。そう本当の意味で懐疑的になれば何もできない。せいぜい道を外れて脱糞するだけだ。