オッド・アイTの猫とその一味第34話「膨らんだ餅を見よ」

そんなわけで週末になると(晴れていれば)私は午前七時に石山家からポーター犬を車に乗せて光兎山中束登山口まで連れて行き、登山ポストの杭に繋いでから出勤する。帰りは6時に迎えに行き、袋の中身の稼ぎを確認してから石山家に送り届ける。光兎山は登り三時間がコースタイム、依頼した登山者と同行するので、一日一往復の稼ぎしかないが、それでも必ず一人は客がいるらしく千円札二枚が入っていないことはなかった。そして運動の甲斐あってポーター犬はみるみる痩せて元通り、生気もだんだんと戻ってくるようだった。

そのポーター犬に鼻黒はどういう要件があるのか。悪事の道に使役しようというのなら金輪際お断りだが、

「斡旋といえば語弊がありますが、荷物運搬犬なら知己の仲です。ところで何を運びますか、一回で運ぶ量は10キロ以下、距離は7キロ、累積標高差は800mが原則です。それに週末は忙しいので平日に限ります」

「分かりました。その条件は依頼者に伝えます。多分軽い物です。封筒に入った紙です。それはこれです」

「つまり手紙ですね」

「そうです。手紙です」

「手紙なら他に届ける手立てがあるでしょう」

「それが住所もないし名前も分かりません」

「それでは運搬しようもありませんね」

「人相書きがありました」

「これは狸ですか熊ですか狐ですかそれともカモシカですか」

「それは猪です」

「猪は字が読めますか」

「字が読める猪を探して渡してください。以上」

鼻黒はそう言うとスキップもしないで走り去った。

料金も聞かないしスキップもしないから鼻黒の中でも特にいい加減で適当な方だろう。

字が読める猪。Yの落とし穴に落ちているような猪ではないだろう。それならば小利口なのが一匹いたが、あれは多分飯豊に行かないと会えない。ポーター犬にしてみれば飯豊往復、それが朳差でも地神でも北股でも本山でも屁の河童だろうけど、ポーター犬だけをやるわけにはいかないと思うと面倒になった。それで側溝にその手紙と人相書きを捨てようとして、手紙だけ開いて見ると

「たいちょうへ。たいへんこまりました。すぐにかえりたまえ。せぷてんばー吉日」

と書いていた。

差出人の名前がないので分からないが、あの猪が何かの隊長であるらしい。捨てても良いが捨てなくても良い。溝掃除は私の役目なので捨てずにポケットにねじ込んだ。

 

八海山には犬は登れないので(鎖を掴めないから)独りで来るつもりであったが、前後に連れがいるようだった。前を行く女性が振り返りながら言う。

「あなたは私を何度も助けてくれたけどどうしてなの」

「私のこと好きなの、どうなの」

助けた覚えはないが、忘れたことにして

「あなたに助けられたことがあります。貴方も忘れて僕も忘れた。ずっと昔の事だから。百年も二百年も前のことだから。でも僕はその恩を返さないとずっと永劫成仏できない」

切れ落ちた崖を見て、私はそんな出まかせを言ったことを後悔した。馬鹿げた会話をしている場合でない。集中しないと滑落してしまうと思い直した。後ろについてきているのは会長のIさんで、奥さんがくれると言うから貰ってきたのだろうか。いつぞや村の肉屋で会った時、私らと山ばかり行くので、「安久さんにくれる」と言われたことがあったが、はっきりと断らなかったから貰ってしまったのかもしれない。Iさんはドームのクライミングにも来ていないから岩場には慣れていないので不安になる。剣には登ったがだいぶ前のことだ。

「鎖を放さなければ滑落はしません。それより尾根を歩く時は一歩一歩慎重に。足を滑らせたり躓いたりすれば真っ逆さまに奈落に落ちます。その奈落では釈迦岳から落ちれば釈迦如来が大日岳から落ちれば大日如来が待っています。つまりあの世行きです」

「私を好きになってからずっと小説も書いてませんね」

前を行く女性が巫女で猪使いのYなのか、それとも別の人間なのか気になったが、それを確認する余裕は無い。

「この二、三年猫と犬の話を書いてます」

「あんなのは出鱈目です。小説ではありません。小説はもっとロマンチックです」

「そうですよね。ただ僕は自分が面白いと思うものを書くだけで、それがロマンチックでなくても良いです」

「あらあ、あれは何、破裂しそうなくらい膨らんだ餅みたいなの。あそこに登ったら破裂して落ちてしまうかも」

「あれは六番目の摩利支岳です。ここを下った所に巻道に繋がる道があるので破裂が怖かったらそこを通ってください」

「餅でないことは分かってるから心配しないで。それに私破裂好きよ、だから破裂したって平気よ」

振り返るとIさんの後ろには鼻黒らしい人がいた。犬も猫も猪もこの山には不向きだが、人間の姿をしていればなんとかなるのだ。但しここではスキップだけは禁止だ。Iさんは鎖に掴まりながらわざと片手や片足を大きく上にあげたり、頭をぐるぐる回したりして鎖場が苦手でないことをアピールしている。もしかすると奥さんから解放されて気儘な気分になっているのかもしれない。仮に貰ったとしても、いずれは元のまま返さないとならないから、ここで万が一のことがあってはならない。だから後ろも気になるし前を行く御転婆も気になる。

昨年と今年八ツ峰を歩いて思うことは、ここでの滑落遭難は鎖場ではなく、鎖の無い稜線で起きているように思う。鎖場は掴んだ鎖を放さず登り下りすれば滑落は無いが、両側が切れ落ちた狭いピークは少しでもバランスを崩してよろけたり躓いたりすればあっけなく落ちてしまうだろうからだ。長い、急な鎖場を下って登って、そしてピークに出た時に油断し易い。今年もし会で行くとしたら10月の下旬、岩山の紅葉は一層美しく、最も登山者の多い時だから、早く並んで始発のロープウェイに乗ったとしても千本檜小屋前に着く頃には後発のロープウェイの人達に追い付かれて、最も混雑する時間帯に八ツ峰を登ることになる。しかし、ゆっくり慎重に行くには却って渋滞が良いのかもしれない。ただ、入道岳まで行く時間は無くなるから、最初から大日岳から巻道で戻るつもりで、とにかく一歩一歩慎重に行くことだろう。

細かいことを言えば、鎖の長さが足りない場所が何ヵ所かあって、足場が決まらないうちに鎖を放すと、勢いのまま落ちていく。またピークから下る時に、鎖を掴もうとしてしゃがむ際に前のめりになりそうな場所がいくつかある。そして、短い岩場だが鎖が欲しいのに無い場所が何ヵ所か。それから七曜岳は二つのピークとも鎖が無く、下りがやや危ない感じになるので素通りした方が良い。素通りしても分からないであろう。手袋は軍手系はダメ、滑る。皮か化繊なら指が出たもの。あとは素手。

僕としては10月23日県内は雨になっても良い。お転婆や貰われてきたIさんや鼻黒猫よりずっと心配だから。