オッド・アイ Tの猫とその一味 第26話「平易な言葉で」の巻

白根マラソンの夜、疲れているはずなのに何度も目が覚めた。最初は眠ってすぐ、こんな夢を見て目が覚めた。

部屋の明かりが点いていて、消し忘れるほどすぐ眠ってしまったのかと思ったが、私の机に座っている人が目に入った。去年の夏遊びに来ると言いながらコロナで来れなかった畔見かと思ったが、目を覚ました私に気付いたのか、ゆっくり椅子を回してこちらを向くと

「うつ伏せになって、悪い夢ばかり見ている」

と言う。鼻黒猫のような気もしたが、いつもの鼻黒ではないような気もした。眩しくて草だらけかどうか分からない。

「こうして本人の傍に90分居れば大体完璧に模倣できます。だから貴方にはそのまま寝ていてほしいです」

「大体と完璧とは矛盾しますが、そんな秘密の秘密を喋っても良いのですか」

「どうせ、夢だから忘れるでしょう。夢でも現実でも区別なく忘れるでしょう。それが人間の長所ですから」

「私を模倣するのはなんのためですか」

「特に目的はないのですが、大体は研究のためです」

私は仰向けに寝直して、胸の上で手を組んだ。そうするのが一番自然で楽なのだが、なぜか悪い夢を見る。うつ伏せでも仰向けでも悪い夢を見る。

「死の時には私が仰向かんことを この小さな顎が、小さい上にも小さくならんことを それよ、私は私が感じ得なかったことのために、罰されて、死は来たるものと思うゆえ。ああ、その時私の仰向かんことを」

ふと昔愛唱した中也を思い出す。

その歌も再び眠れなくなるほど心に響かない。

また目が覚めた時、鼻黒猫は机に向かって何か書いていた。そうしてやはり目を覚ました私に一枚の紙を見せた。

「この人を知っていますか。そしてこの人にはどこに行ったら会えますか」

丸顔のおかっぱの女性が黒い四本足の動物に乗って、槍のような物を振り上げている。黒い動物が猪なら上に乗っているのは多分Yだろう。

「下の黒いのはなんですか。狸ですか、猫ですか。上に乗っている人間と比べるとだいぶ小さくて潰れそうです」

「これは猪です。猪のつもりで描きました」

「では牙を描いたら良かったのに。それでこの人が何かしましたか。それとも何か良い事をしてなにか貰えるのですか」

「この人は何も貰えません。貰えるのは僕です。この人の居場所が分かる確かな筋の情報次第で私が貰えます」

「その報酬は何ですか」

「うーん」

「それを言ったらこの人の居場所を教えます」

「それは確かな筋の情報ですか」

「それは貴方が判断してください。報酬は何ですか」

「うーん」

「それが言えないのなら、なぜこの人の居場所が知りたいのか教えてください」

「はい。この人は猪と虚言を操って山のヒメサユリを根こそぎ取っています。それで猪達から文句が出て、その人を探しています。山にいたかと思えばマラソンを走り、プールにいたかと思えばしがない工場の一労働者となります。つまり神出鬼没で正体が分かりません。その本性を突き止めるのが探偵の仕事です」

「貴方は探偵ですか」

「そうです。猫探偵です」

「その報酬はなんですか」

「うーん」と言って猫探偵はまた困った様子だ。

「ほうしゅうというのはなんですか」

残念ながらそこで夢は覚めてしまった。そして鼻黒猫と話す時はなるべく平易な言葉を使おうと思った。それにしてもYは大変な濡れ衣を着せられて指名手配を受けているようだ。ヒメサユリを守るために落とし穴で猪を捕らえ、山小屋の火事を利用して串刺しにした猪を丸焼きにして食べる、そんな活動が猪の天敵と見なされ、彼らを一致団結させたらしい。しかし、私にしても本当のところの正体は分からない。昨日マラソンを一緒に走ったYが巫女で猪使いのYなのかどうか。常に飯豊を跋扈しているなら、マラソンでももう少し早くゴールできるはずだがと。

 性格に二面性はあっても肉体は一つである。猪を三匹串刺しにして、それを振り回すことは、しがない町工場で働きハーフマラソン2時間17分のYにはできそうもない。だから再び猫探偵に聴かれても、その居場所は言わないことにしよう。たとえ報酬の半分が私の取り分となっても。

 

 犬はこの頃富に目が悪くなって、私がマスクをしていれば決まって吠える。マスクを外しても惰性で吠えている。白内障はさらに進んで、勘で吠えたり吠えなかったりしているようだ。気分次第にも思える。それでも三時頃になれば、やはり散歩だけは楽しみなのか、小屋を出て、外でTのやってくる方向を向いて待っている。Tのやってくる時間は季節によって違うので、つまり夕暮れ時が散歩の時間なので、今時分だと三時間位待つことになるが、それを苦にする風でなく、姿態を変えながら、そして時々傍を通る猫に吠えながら待っている。ただしこれから雨が多くなり、そして更に日差しが強くなれば、出たり入ったり、ということになる。

目が悪くなったのが原因なのか、以前入り浸っていた猫も来なくなった。冬の間見えなかった猫が多分久しぶりに犬小屋に近づくと、犬は怒った様子で近づかせなかった。咬もうとさえした。だから食事量は減った。

何もしない、何もできないという諦観は犬でしか得られないものだ。この犬、クマがすべての黒幕ならそれはそれで面白いのかも知れない。大愚大賢とも言う。大愚は終身解せず、感じ得なかったものは昔も今も沢山ある。

光兎山の雪がすっかり消えて、朳差の朳爺の雪形がはっきり出てきた。今でこそ今頃が田植えの真っ最中だが、以前は五月の初め頃だった。だから雪形が田植えの目安だとするとどちらも時期がずれている。少なくとも兎と朳爺の雪形は同時期ではない。雪の量の変化なのだろうか。白嶺を見ると山への憧れは一層強く湧き上がる。どんな感傷も許される場所。