オッド・アイTの猫とその一味 第38話「鼻黒医師の言い分」

猫と鼻黒猫とポーター犬と、それを取り巻く人間たちの報告をこの頃怠っていた。もちろん報告は義務ではないが、私自身の認識、確認のためだ。それだけの意味しかない。

報告が滞った理由は喉の痛み。10月の下旬、正確には26日急に喉が痛くなって、週末には大勢を引率する登山もあったので、その日の夕方大急ぎで薬局に行き、抗原検査キットを買って帰った。陰性でほっとはしたが、たまたま翌日が診療所の予約日であった(二十年前に痛風になって以来、高尿酸値血症の薬を飲んでいる)。喉の痛みを隠して診察を受けるべきかどうか悩んだが、万が一の事を思って、待合室に入る前に電話で受付に言うことにした。もちろん抗原検査陰性の事も話したが、案の定自分の車の中で待つことになり、やがて看護師が来てくれて、そしてH医師が窓越しに診察してくださった。先生は長くて細い特殊な綿棒(抗原検査の物より更に長くて細い)を私の鼻の穴に入れて回した。これはつまりPCR検査の検体の採取であるが、いつのまにか先生は鼻黒猫になっていた。それに気付いても綿棒を鼻に入れられたままなので抵抗できない。だから看護師が後ろのドアを開けて乗り込み、ガムテープで私をぐるぐる巻きにするのに手間はかからなかった。

「カッパ君はかわうそに負ける。かわうそはハワイに負ける。カッパ君はハワイに行ったことがある」

朳差岳の避難小屋の一階の柱に括り付けられた私は、鼻黒猫の独り言を聞いていた。鼻黒猫は白衣を着ていて、つまり私の鼻の穴に綿棒を入れたH医師に化けたままのつもりでいる。私は口だけは自由に動かせたので「それは漫画ですね」と言うと「そうです。漫画の総括です」と鼻黒医師。

「あなた方は漫画で人生を勉強しますか」

「カッパとカワウソとハワイの関係です。人間の行動原理の縮図です。漫画を読むと2万5千分の1の地形図を見るように人間の斜度が分かります。谷も尾根も分岐も分かります。実は貴方の地形図も持っています。どこが分岐だったかさえ分かります。でももう戻れませんけどね」

 どのようにして私が朳差岳の小屋まで運ばれたか分からないが、人質となっていることは状況から推測できた。目的は尊徳の頭か、それともY似の猪使いの巫女だろうか。ぐるぐる巻きにしたガムテープは少しずつ動いていればいずれ緩んで外れそうだけれど、逃げられたとしても運動靴のまま、しかも空身でこの山を下るのは難儀だろう。東俣でも足ノ松でも走って下れないことはないが、言いなりになってさえいれば、いずれヘリコプターに乗れるかもしれないと思うから、成り行きを見守ることにした。ところが鼻黒は横になったり立ち上がって窓から外を眺めたりしていかにも暇を持て余す風だ。

「ところで僕は人質ですか。なんのための人質ですか」

「いえ、人質ではありません。大体なんのための人質ですか。あなたはコロナの感染者だから隔離しているだけです。普通は一週間の自宅待機ですが、あなたの地形図から判断して監視付きの隔離となりました」

「えっ、このまま縛られたままで、ずっと」

「いえ、ガムテープは柱とは繋がってません。あなたが寄り掛かってるだけです。それにガムテープは

服にくっついて取れないだけで、あなたを拘束はしていないはずです」

私は両手が動くことを確認しながら服の腕や腹にくっついているガムテープを剥がそうとしたが、確かに剥がれない。

「布のガムテープだときれいに剥がれるんだけれど、これ紙のやつですね」

「そうです。何重にもぐるぐる巻きにする必要があったので、安い方にしました」

「布の方が毛玉も取れて良いのだけれど」

「そこまでは考えませんでした」

「ところでこうして自由に動けるなら逃げられますよ」

「そうです。でも靴も無いし、ザックも無いし、裸足で水無しで下山しますか」

「一週間経ったらヘリコプターが迎えに来ますか」

「いえ、一週間後に看護師が靴とザックを持って登ってきます」

「随分面倒な隔離ですね」

「あなたのせいでね」

「私の地形図のせいですね」

「その代わり毎日10往復、水を汲みに行ってもらいます。下り10分登り15分、水を汲む時間5分で往復30分が10回で一日5時間。運動と暇潰しと炊事とトイレ掃除のための水汲みです」

「水場までは急な斜面ですよ。靴が無いでしょう」

「そのサンダルを使ってください。サンダルを大六式に草でぐるぐる巻きにすれば、足に密着して外れないし滑らないし一石二鳥です」

「分かりました。仕事先に連絡してもらえないですか。一週間休むと。一人勤務の日もあるので連絡しないと」

「まあそういう心配は水汲みを一回でも二回でもしたら聞きましょう。だれがいなくても地球は回る、それがこの世界の長所です」

私は玄関の靴箱に並んでいるゴムの小汚い茶色のサンダルの中からましなのを選んで履いて外に出た。そして葉や茎が長そうな植物を探した。ニッコウキスゲの茎、太くて長いがすぐ折れる。ハクサンフウロの茎、細くて長いがすぐ切れる。結局イブキトラノオを十本位の束にすると切れずに縛れることが分かった。私が小屋の前で試し歩きをしていると鼻黒医師が出てきて、二つの容器を差し出した。それは大五郎という焼酎のプラスティック容器で、4ℓ入る。二つは紐で結んであって、これを首からぶら下げれば両手が使える仕組みだ。

 私の考えでは、一週間ここで過ごすのも悪くないが、私の地形図の所在が分かったら、それを奪って速やかに山を下りよう。つまり鼻黒医師は私に仮の靴と仮の水筒を与えたようなものだから。