オッドアイTの猫とその一味第100話「要返信文書」

鼻黒郵便夫が水曜日の夕方一枚の葉書を配達してきた。高校の同級生で、年賀状だけやり取りしているが、今年は来なかった。葉書には七人目の孫ができたことと、一杯飲みたい、みたいなことが簡単に書かれていた。和光市に住んでいた浪人時代、デザインの学校に通っていた彼が稀に訪ねてきた。以来会うことはなかったが、地元に戻った彼は新潟市に事務所を構える程成功し、家を建て、家族を持ち、順風満帆な人生を送っていると年賀状から推察していた。高校の友達で唯一所在が分かるのは、同僚となった役場職員数名を除けば彼だけだ。彼とはその浪人時代から会っていないから、半世紀50年前のこと。私は年賀状に近況など一切書かないから、私のその後は一切知らないだろう。「いいやつ」という印象しかない彼と私の境遇とはあまりに違い過ぎるので、飲む気にはなれない。近況をお互い話し、二人が共有できる高校時代の事や友人をなんとか思い出して話すのがせいぜいだろう。だから私は三日間、日課の水汲みをしながら、また朳差から長者平までの植物観察をしながら考えた。「いいやつ」の気まぐれに付き合う必要もないが、いつまでも返信しないのも誠実ではない。私は簡単に私のその後を書いて、会わない理由を感じ取ってもらう、そんな手紙を返信した。なぜならこの葉書は「要返信文書」扱いで、これを配達してきた鼻黒郵便夫はその後ずっと小屋に逗留している。私の返信を預かるまでここで待たなければならない。
「僕は君が故郷に帰った後も浪人し、結局三年浪人して目指した大学に入りました。長くて孤独だった浪人時代に芽生えた作家志望のため、勉強より創作を優先、授業をおろそかにして、三年留年しました。この学生7年間の出会いがそれまでの私の自己完結的な考え方を大きく変えました。在学中に作家になる足掛かりが欲しかったのですが、それもならず、ちゃんとした就職もせず、友達が勤めていた塾に最初アルバイトで入り、二年目から正社員、この時代が精神的には一番楽でした。あんまり楽過ぎて親の事が気になり、こんな楽な時間を過ごすなら家に帰って親を安心させようと決め、四年勤めた塾を辞めて故郷に戻ったのは32歳の春です。一年家で過ごし、翌年春から新潟市の進学塾に勤め始めました。新潟市のアパートで暮らした三年間は人に言えないことばかりです。地元に郷土資料館ができるという話があり、そこに勤めるために新潟市から戻りました。この時36歳、しばらくは臨時職員でしたが、学芸員の資格を通信教育で取り、正職員となりました。46歳の時に公民館に異動(学芸員の仕事と兼務でしたが、公民館というところは行事が多く、それに追われて資料館の仕事はおろそかになりがちでした)、そこで退職を迎えました。この間も創作は続けてきましたが、鳴かず飛ばず。ただ村民との接触、交流の多い公民館の仕事は私の性格を社交的にしてくれました。また、大学の時に友人に誘われてしていた登山を44歳の時に再開し、最初二年の単独行も、その後の山岳会活動でできた仲間も私の精神を支える大事な事柄になりました。退職後また資料館に戻り、臨時として働き今年で8年目です。
大学の時親しかった女性から「小説家にならなかったら何になれるの」と言われたことがあります。まったく的を得た言葉でした。何にもなれないまま生きています。いつも7月の朳差に暮らす私にはそんな後悔もむしろ心地良い。それがいろんな理由になりますからね。でももう一人の私にはそうではありません。
家族の事ですが、父は三年前90歳で亡くなりました。コロナ禍で満足に面会もできなかったことが残念でした。同じ年の母は75歳で寝たきりとなり、昨年胃瘻の手術を受けて施設で暮らしています。会いに行っても私の事は分かりません。妹はずっと東京、これも結婚せず、いずれこの家に戻ってくるでしょう。楽しく思うままに晩年を過ごしてくれればと思っています。
悔いや慚愧は言っても仕方ない。同じ私が今日を生きる。だから私は今日の歌を今日歌うだけです。