オッド・アイTの猫とその一味第64話「種蒔山から」

九月は初めに二泊三日の北岳山行、そして不帰、八峰を越える後ろ立山三泊の縦走、それから湯沢のハーフマラソンと続いて、草を刈る余裕はなかった。雨が降らず作物が育たないと聞くのに、盆前に刈った家の周りの草だけが青々とし繁茂していくのを、半ば感心して見ているだけだった。十月になって最初の休み、一番人目に付く、そして最も伸びている、ビニールハウスのあった場所に草刈機を入れると、叢の中を葛が縦横無尽に伸びていて、その蔓が草刈機の刃に引っかかり回転を止める。草は垂直に伸びているから横から切れば容易に切れるが、葛は横に這って伸びているので横から切ってもなかなか切れない。葛というと「葛の花 踏みしだかれて 色あたらし この山道を 行きし人あり」という釈迢空の歌を思い出すが、花も咲いていないこの時期、葛の蔓との苦戦で頭をよぎることは一切ない。

そんなわけで、種蒔山から三国の小屋までのことは割愛するが、後ろ立山、二つのキレットを越えていく時に、前を行く人、後ろから来る人を鼻黒猫に想定して「怖がらず足元を見て」「ここは足場が脆いから鎖をしっかり掴んで」とか声掛けをして進んでいたので、私の心の中からこの物語が離れることはなかった。実際不帰の二峰北峰を登り切った時、後ろについてきた鼻黒にこんな声掛けをした。「ここまでが難所、最後気を抜かない、しっかり一歩一歩踏んで焦らない」

鼻黒猫は半分猫だが半分人間だ。半分の人間が元来おっかながりだと、やっぱりどこかおっかながりのへっぴり腰になる。猫の敏捷性などは岩登りの役には立たない。

「岩から体を離して上を見て、次どこを掴むか考える!」

私は鼻黒猫を連れてきたことを後悔したが、果たして自分が誘って連れてきたものか、鼻黒自ら希望してきたのか思い出せない。しかし、こうなればどちらも同じ、滑落だけはしないようにと願えば、飯豊の山旅はいかにも楽だ。体力的にはきついけれど、鎖場なんて何ヶ所も無く、あってもわずかの距離である。だから私は話を飯豊に戻そう。

種蒔山から三国の小屋までは、こんな会話があった。

「私なんか本来押しも押されもしない紳士でした。ところが突然猪になってしまって、今も現実として受け入れられないので苦しんでいます。その苦しみを緩和するためか、私が猪にならなければならない因果を毎晩夢として見させられます。それはそれは恐ろしくて嫌です。私は私自身を裏切り、私は人を傷つけました。猪に満足するか、悪夢を見るか、ですから私にとって安眠の薬ヒメサユリはぜひ必要なのです」

そう薬缶の猪は一休みした時に言った。薬缶の水を飲むために、鼻黒猫がその鼻(首)から薬缶を外したので、喋り易くなったのだ。

「紳士というのはどういう紳士ですか、ダンスですか床屋ですか」

「ポーター犬を斡旋する会社の社長でした」

「それは儲かりますか儲かりませんか」

「紳士でいられるくらい儲かります」

「私らは猪を使ってその仕事はできませんか」
「生来の性質というのがありますから猪では無理でしょう」

鼻黒猫は少し残念がった。

  そしてようやく三国の小屋に着いた時、地形図を探すことも忘れるほどバタバタしていた。元紳士で薬缶の猪がバタンキューと倒れたからだ。仮病だと思って棒で突いたり毛をむしったりしたが、どうも熱中症のようだった。小屋はすぐ近くに見えていたが、担ぐことは到底できないので、丸太を転がす要領でゴロゴロと押した。頭の方と尻尾の方では径が違うので、ただ押していると尻尾の方に曲がって道を逸脱し崖に落ちそうになるので、修正しながら押した。小屋の玄関まで転がすと、白衣を着た医者らしき人物が小屋から出てきた。

「どうれどれどれドントウォーリー」

「歩いている途中でバタンキューと倒れました。熱中症かと」

「だいぶ目が回ってますね、先ずはそれから治しましょう」

医者はそう言うと猪を来た時とは逆に回し始めた。そうすると折角到着した玄関から離れるので、方向を変えた。つまり小屋の前の狭い場所で四角を描くように回した。

「こんなもんでいいでしょう。どうれどれどれドントウォーリー」

医者はそう言うと猪の鼻に聴診器を当てた。そして首を傾げた。

「おやもう死んでますね。回し過ぎたかもしれません。でもどうれどれどれドントウォーリー。必ずこの看板にかけて蘇生させます」と指差した先には「猫山猫猫臨時山岳診療所」の看板が提げられていた。三国の小屋がそう名前を変えたらしい。水場から汲んできたという水を医者が猪の頭に二杯、三杯とかけると猪は起き上がった。多分死んではいなかったようだ。そして医者が置いた容器から水をがぶがぶと飲んだ。私はどうもこれは医者と猪が企んだ芝居のような気がした。その目的は分からないが、診療所の裏にぐるぐる巻きにされ猿轡もされた人間が横たわっていたからである。多分彼がここの正式な管理人だろう。