オッド・アイ Tの猫とその一味 第17話「使わないのなら貸してください」

陰鬱なこの時期に冬囲いをしなくてはならない。どうしてもしなければならないことだから、切羽詰まらないうちにしたいと思っていても、天気が良い、休みの日でないとできないからどうしても遅くなりがちだ。初雪を見て慌てたり霙に打たれながらは例年のことだ。猫の餌場が冬囲いの資材置き場なので、運び出す間、猫たちは遠巻きに私のやることを見ている。囲いの資材の長い板は腐った猫の餌で汚れている。皿からこぼれた餌が板と板の隙間に入ると猫も取れないからだ。糞もあるが、これは多分狸のだろう。そういう物を適当にこすり落としてから運ぶ。置き場にある木材全部を使うわけではないから、運び出してしまえば空間は広くなり猫には好都合だろう。窓の外に運んできた長い板を格子に組んで骨組みとして、その上にプラスティックの波板トタン、あるいは葦簀を掛ける。葦簀の方が簡単だが、中が暗くなるので台所側はプラスティックにした。中に洗濯物を干すので今年はプラスティックにしようと思っていた。父が居た部屋は簾にした。この冬もコロナで戻る見込みはないから。

 この家は父母が50年前、正確には52年前に建てた家だ。私が小学校6年の時。その頃は祖父母も健在で6人家族。クーラーも無く、風呂は薪で沸かし、トイレは汲取り、夏は暑く、冬は炬燵と行火で凌いだ。暑い、寒いと言いながら不便はなかった。

 住む場所の気候に順応し、工夫を凝らして生きるしかない。毎年の事だが、この毎年もずっと続くわけでもない。むしろ自力でできる今の健康に感謝すべきだし、今のうちにやるべきことが沢山ある。極力人の手を煩わせないようにしたい。

 猫同様、犬も日向ぼっこが好きだ。暗い小屋の中か、日の当たる外しかないから、好きだと言えば語弊はあるが、頭にタオルを巻いて動き回る私を不審に思って吠えていた犬もそのうち小屋の前のコンクリートの上に寝そべっている。日向ぼっこは自分の寿命を謳歌する最も相応しい態度に見える。犬の居ない犬小屋の中に見慣れない毛布が入れてあるのにふと気付いた。寒くなってきたので母が車椅子に乗る時に使っていた膝掛を二枚入れておいたのに、それでは不十分と思ってTが入れたのか、入り口が塞がるほどがかさばっている。これでは犬も中に入りづらいだろうと近づくと、その毛布が動く。それはでかい猫の背中であった。金槌で背中を押すと、態勢を変えて顔をこちらに向けた。人間の顔をしている。

「どうも」

「どうもじゃないでしょう。ここは犬の寝場所です」

「私はここがだいぶ好きです」

「だいぶ好きだとしても犬が困ります」

「最初はそう思って私も遠慮して時々しか入らなかったのですが、是非というので」

「犬が是非と言いましたか」
 犬を見ると相変わらず日向ぼっこでこちらに関心はない様子だ。

「そうです。そう言ったように聞こえました」

「昼間はいいけど夜は困るでしょう」

「私は夜の方がここが好きです」

こういう会話をしながら犬小屋の中の生き物を観察した。三毛猫の体表だが、顔と体形は人間。本性が猫なので体は柔軟で、狭い小屋で容易に体位を変化させる。おそらくこれも鼻黒猫の一形態で、猫から人間に変化する過渡期の様態なのかもしれない。昆虫や甲殻類の脱皮のように皮を脱ぐ時が来たら、その毛皮は犬への置き土産として新しい敷毛布になるだろう。中身が無いから容積も無く、今度こそ毛布三枚のふかふかの寝床となるはずだ。そういうことも考慮すると、無理に追い出す必要もないような気がしてくる。

「実は貴方より私の方が犬の気持ちは分かります。同じ毛動物ですから」
「毛動物?」

「そうです。蛇と蛙と人間以外はみんな毛動物です。言いづらいことですが犬は貴方を好きでないようです」

「なぜですか」

「バドミントンの壁打ちがうるさいと言っています。それに全然上達しないとも」

「でも壁打ちする時は小屋の中で寝ていますよ」

「我慢して寝たふりをしているそうです」
犬がそんな事を言う訳はないので、この鼻黒猫の感想だろう。鼻黒猫はだいぶ前から出入りし私の様子を伺っていたに違いない。この頃犬の食欲が増したな、と思っていたが、鼻黒猫も食べていたのかもしれない。それにしても犬が全く吠えないのが不思議だ。以前出入りしていた猫がこの鼻黒猫になったのだろうか。とりあえずまた母の毛布を押入れから引っ張り出してきて、小屋の前に折り畳み、犬の仮の寝床として様子を見ることにした。
 その夜の夢。山座同定盤の上に猪が乗って山を眺めている。背が低いので盤の上に上がればいくらか眺めも良くなるのだろうが、同定盤を見るのに邪魔だ。猪は指を差すという行為が苦手なので、牙の向く方が意図する方向のようだ。「武尊か」と言いながら牙を武尊の方に向ける。白髪門、谷川岳、万太郎と山の名を呼びながら反時計回りに回って私と向き合った。邪魔だと言わんばかりに猪は更に大きな声で浅間山と言った。私は山座同定盤に乗るという迷惑な行為が我慢できなかったので、牙が反れたらストックで突いて落としてやろうと待ち構えていたが、浅間山とばかり連呼して私の正面から動かない。仕方なく私の方が横にずれると私の魂胆を見抜いたように猪も動いて相変わらず牙を私に向ける。右に回ると猪も右に、左に回ると猪も左に回って私と対峙する。そんなことをしているうちに登山靴を履いてない猪は残念ながら滑って落ちた。ざまあ見ろと私は思ったが、落ちたのが癪に障ったのか私に向かって突進してくる。私が山座同定盤を防御の盾にするとそれを回り込もうとするから山座同定盤を中心に私と猪はぐるぐる回る。思い切って同定盤の上に飛び乗ると、さっきと立場が逆になったわけだが、猪はそれに気付かずひとりぐるぐる回っている。猪もいずれ疲れるだろうから、倒れて横になったら、その腹をストックで突いて懲らしめてやろうと待っていたが、猪はなかなか疲れない。私はこんな特殊な状況を山仲間にも伝えようとスマホを出して写真を撮った。するとそのシャッターの音が意外と大きく、それを聞き逃さなかった猪は走るのを止め、上を見上げた。そして前脚を山座同定に掛けて上がろうとする。猪はたった今までここにいたわけだから上がろうとすれば上がれるだろう。私はストックで頭を小突いて上がるのを阻止する。すると猪はあっけなく倒れる。しかしすぐ起き上がってまたよじ登ろうとする。そして小突かれて倒れ落ちる。そんなことを何回か繰り返しているうちに、いつまでもここにいるわけにはいかない、他の登山者がやってきて同定盤を見ようとする時、私が今度は邪魔になると思ったから、一段と力を込めて猪の頭を叩いた。すると横に倒れたまま動かなくなった。これは芝居だなと思ってしばらく見ていたがやはり動かないので、静かに降りて恐る恐る近づき猪の腹をストックで小突くと、かっと目を開き跳ね起きた。やはり気絶した振りをしていたのだ。また同定盤の上に逃げたのでは同じ繰り返しなので、一目散に下山することにした。同定盤を二周回ってから登ってきた道を走って逃げて振り返ると、やはり畜生の浅墓さ、まだ同定盤を回っている。しかし、なにか変だと気付いたのか、回るのを止めた猪と目があって、私は今度こそ一目散に駆け出した。急斜面なればこっちのものだ、猪は自らスピードを制御できずに転がっていくだろう。猪の地響きが背後に近づいた時、私はさっと登山道を逸れた。すると急に目標を失った猪は急ブレーキを掛けて二本の前脚を突っ張ったが、ずるずるっと滑った後もんどりうって前に倒れ、そのままごろんごろんと転がっていく。畜生にしても気の毒だと見ていると、やがて転がる猪は一塊の黒い岩となったので大声で「ラク」と叫んだ。また地響きがして上を見ると猪が一列になって下ってくる。部下か仲間を呼んだらしい。今の方法でうまくいくか分からないがとにかく逃げるしかないので、岩になった猪の二の舞にならないように全力に且つ慎重に走り下って、後ろに気配を感じた時にさっと避けると猪は前例通りに滑って倒れて転がって岩になった。面白いような面白くないような、ただ岩が登山者に当たれば私の責任なので「ラク」とその都度叫び続けた。登山者に当たった岩が猪に戻れば、それは猪のせいで猪を責めたりしないだろうが、岩のままであれば私が落とした岩として登山者は解釈し私を責めるであろう。その岩は私を追ってきた猪ですと言っても誰も信じない。逃げては避け、そしてラクと叫びながら下山していると仏岩に着き、ここが群馬県の吾妻耶山であることが分かった。看板を読むと沢山の猪が岩になり、それが集まって仏岩になりましたと書いてある。岩になるのも業、岩に追われるのも業なり、とも。そこに下山してくる人間がいて、Yだ。どうも怪しい。追って追いつけないので猪が化けたのだろうと思い

「あれは武尊だろうか谷川岳のトマの耳だろうか。それとも仙ノ倉あたりだろうか」

と指さして言うと

「多分富士山です」と言う。猪くらいの知識だと山は富士山しか知らないらしい。山の名は知らなくても山は駆けまわり住処にできる。

「ほお、富士がここから見えますか。でも富士にしては周りに山がつながっていますね」

「この国は山だらけですからね。だから山に住む生き物の国です。それに山に名前を付けるのは愚の骨頂です。愚劣で矮小な欲望の表れですね」

変な理屈を並べる新しいタイプの鼻黒猫のようだ。
「ザックはどこかに置いてきましたか。ストックはそんな棒切れでは折れた時危ないですよ」

「ではそれを貸してください」

Y似の鼻黒猫は私のザックの横に付けてあるストックを指さした。

「使わないなら貸してください」

そしてザックを下ろして三つ折りのストックを外し、伸ばして渡すと、代わりに棒切れをよこした。

「これは要りません」

「持っていてください」

「拾った枯れ枝でしょう」

「そうですが、このストックを借りた証文です」

「証文ですか」

「そうです。証文です。後でそれを返してくれたら私もこのストックを返します」

「それまでこの棒切れを持っていないといけませんね」

「そうです。証文ですから」

そう言うとY似の鼻黒猫は歩き始めた。私は急いでザックを担ぎ、その棒切れ二本を持って後を追った。いろんな疑問がある。途中で分岐があるが、果たして私が車を停めた登山口の方に向かうのか。鼻黒猫は一体どうやってここまで来たのか。原付バイクでは難しい。もしかして別の鼻黒猫が群馬にいて、連絡を取り合っているのだろうか。そんなことを考えているうちに私がいくら急いで歩いても鼻黒猫の姿は前方に見えなくなった。多分猪に戻って駈け下りたのだろう。そうするとストックは不要になるだろうから、捨てられていないか道の脇に目をやりながら駐車場に着いた。登った時同様、車は私のが一台だけ、小用を足す場所を探しながらストックも探したが見つからなかった。二本組のストックの片方が曲がり、一本売りのストックで補ったので、揃っていない二本組。軽いことと短くできることが長所ではあったが、さらさら未練はない。

 その翌日の朝早く、風の音か、夢か、あるいは犬の声で目が覚め、新聞を取りに玄関に出ると、鼻黒猫に貸したストックが玄関の戸に立て掛けられていた。
「ストックを返します。証文はここに置いてください」

証文は鼻黒猫を追って下山する途中に片方が折れ、もう片方もその時ついでに捨てている。そういう事情を説明するのも面倒なので、家を一周回って棒切れを二本拾い、ストックと同じ場所に立て掛けておくと、出勤時には無くなっていた。吾妻耶山のY似の鼻黒猫が原付で一般道を一晩掛けて走ってきたとは考えにくい。群馬と新潟と連絡を取り合って、最末端の犬小屋の半端な鼻黒猫がストックを置いたのかも知れない。ストックをどうやってここまで運んだか、それは多分、鼻黒便、みたいなのがあるのだろう。私は犬小屋の近辺にさっき私が拾った棒切れがないか探してみた。それから犬小屋の中の鼻黒猫を覗いた。大概入り口に背中を向けて寝ているので様子は分からないが、尻尾は外に出しているので、用がある時はそれを引っ張る。私は特に用はなかったが、尻尾の中身がまだ入っているかどうかには関心があるので、掴んで引っ張った。

「おはようございます」

「おはようございます」

「また特に用がないのに引っ張りましたか」

「はい、また特に用がないのに引っ張りました」
「特に用が無い時は引っ張らないでください」

「はい、特に用が無い時は引っ張らないようにします。でもこの尻尾は神社の鈴緒と同じで特に願いは無くても引っ張ってみたくなりますね」

「神社にはこんな尻尾がありますか」

「ありますあります。特に願いは無くても引っ張るとガランガランと鈴が鳴ります。その音で寝ている神様が起きます」

「神様というのは誰ですか」

「猫と人とを隔てます」

「神社の中にいますか」

「神社の中にいて背中を向けて寝ています」

「それで間違えて私の尻尾を引きましたか」

「いや、そんなこともないです。私はただ鈴緒に見えるから引いただけです」

「では特に用が無い時は引っ張らないでください」

「でもねえ。神社の鈴緒に見えるからねえ」

私はそう言って家に戻った。脱皮して人に近づくというのは私の見当違いかもしれない。