オッド・アイTの猫とその一味第39話「日記係の交替」

1日5往復、大した労役には思えなかったが、サンダルであるのと、水を汲むのに以外と時間が掛かかるので、一回1時間では終わらないことが分かった。水場は浅くて大五郎の4ℓ容器がすっぽりと入らない。だから500のペットボトルで汲んで大五郎の細い口からゆっくりと注ぎ込まないとならない。水は冷たい。ペットボトルに水を入れるために手を水の中に入れていると、感覚が麻痺するくらい手が冷たくなる。大五郎一本を満タンするにはペットボトルが8回分、二本で16回、30分以上掛かるので一時間で山小屋に戻れないことが分かった。つまり1日大体8時間労働に計算されていて、長者平の池塘まで遊びに行ったり鉾立の峰まで散策に行ったりする暇がないスケジュールなのだ。

首から下げた大五郎2本を玄関に下ろすと、鼻黒医師は横から見て満タンであることを確認して手帳に書き込む。午後の三回目位になると私は決まって逃亡を夢想する。たとえ鼻黒医師が道にはだかり邪魔したとしても通れないことはないだろう。鼻黒医師は突き飛ばされて6月ならハクサンイチゲ、7月ならニッコウキスゲとヒメサユリの花畑に転がるだけだ。けれどもそれは地形図を手に入れてからの話、それまでは水汲みを従順にこなして地形図の在処を探らないとならない。それから二度三度往復するうちに解けてくるイブキトラノオの強度も問題だと思っていた。もっとしっかりした縄状に編んで、解けない結び方にするために水汲みから戻ってくる度に思案した。

それにしても、と私は思う。二本の大五郎をチェックするのに随分と時間が掛かる。手帳に盛んに何か書き込んでいる。そういえば、とまた思う。日記係も字を書くことに几帳面だったと。すると、鼻黒医師はもしかして日記係ではないかと思えて、イブキトラノオの縄を縛ったり緩めたりしながら聞いてみた。

「貴方はH医師でなくて日記係ですか」

「そうです。日記係です」

「日記係から医者になりましたか」

「いえまだ日記係です。貴方の日記係をしていて貴方の性質を観察したので、私が来ることになりました」

「ご迷惑お掛けします」

「いえ、貴方に字を習ったおかげですから」

私はそれから逃亡の気持ちを強く持たなくなった。従順に水汲み期間を終えて下山しても良いとも思った。しかし、チェック帳の中身が気になったので、並べられ積み重ねられた大五郎の上の釘に掛けられたそれを時々読んだ。トイレ掃除と料理は鼻黒医師の仕事だったので、彼がそれに携わっている時、盗み見ることができた。
朝晴 黄色い花がある。白い花がある。赤い花がある。 大晴ときどき曇り 白い小さい花

大というのは大五郎一本のこと、私が汲んできた本数をこれで表している。

私はチェック表を見ていることは言わないで、花の名前は教えてやった。

この黄色い、大きな花はニッコウキスゲです。夏の花の関脇です。一輪一輪は一日で咲いて萎んでしまう一日花です。これはタカネナデシコです。高山植物の小結です。細かな花弁の切り込みが自慢です。

私が一回水汲みに行けば一時間以上も戻って来ません。その間に朳差の頂上に行ったり、頂上の反対側の長者平まで散歩に行ったら良いでしょう。長者平は飯豊の中で池塘の点在する一番の草原です。

私は柱にもたれて居眠りすることがある。夢の中で夢を見るのは人生に似ている。時々思い出す辛いことも、悔いて悔いきれない事さえも夢の中のことに過ぎない。

日付が無いのも気になったが、山小屋にはカレンダーが無い。それにテレビもラジオもないので(スマホも持ってこなかった)、花や全体の雰囲気から推測して、私がここに連れて来られた日を仮に710日とした。

713日 朝雨大大 ニッコウキスゲ咲く。タカネナデシコ咲く。イブキトラノオ咲く。

「この緑の尖った花はなんですか」

「これはハナイカリです。普通こんな高い場所に咲かない花ですが、気紛れに種が運ばれてここで咲いたのでしょう。飯豊でもここだけです。場所を弁えず咲く花です」

「この飛ぶ花は何ですか」

「この飛ぶ花はベニヒカゲです。花でなくて蝶です。黒い羽に瓢箪の模様のオレンジの柄」

不思議と誰も来なかった山小屋に泊り客があったのは五日目。大石山からこちらに向かって下る人を見つけた鼻黒医師はそれを指差して

「あの人はここに泊まりますか」

「さあどうでしょう。朳差岳を通過して東俣に下りるかもしれませんし、朳差岳に登ってまたすぐ引き返すかもしれません。まだ昼前なのでどちらか分かりません」

登山者は大石山と鉾立峰の鞍部に下って見えなくなったが、小一時間もすると鉾立峰に姿を現した。

「あの人はここに泊まります。それとも素通りして東俣に下りますか。あるいは引き返して頼母木小屋に泊まりますか」

私は同じ答えをした。日の長い今の時期なら今日のうちに東俣に着けるし、大石山まで戻って頼母木小屋までも楽に行ける。足ノ松尾根を下って奥胎内ヒュッテまで行っても暗くはならないだろう。

「あの人が泊まった方が良いですか悪いですか」

「今度ここに泊まる人は次の日記係です」