オッドアイ・Tの猫とその一味第56話「その背からは察し得なかった」

猪の頭の毛が風と陽で乾き、我々の髪が汗でしとどに濡れた昼頃、御西小屋に到着した。登山が目的ならここに荷を置いて大日岳を往復するだろうが、我々は飯豊連峰最高峰を指さしただけだ。振り返ると、烏帽子、梅花皮、北股岳と今日歩いた山々が重なって連なり、北股の陰になってそれ以北の山は見えない。北股の左にあるのは二王子岳である。水場まで降りて水を補給、本山までの分があれば足りるのだが、二匹になった猪の分が各2ℓ。薪を背負ったまま横になって休んでいる猪は自力では到底起きられないので、一匹ずつ皆で起こし、そして水を飲ませて出発となる。我々は何のために生きているのか、考えさせられる時間だ。

 グラウンドのように大きないくつかの雪田(斜面に丸く残った残雪)の上を横切って歩く。吹きあがってくる風が草原に波を作る。草原の中に咲くニッコウキスゲが揺れる。コバイケイソウが揺れる。ハクサンフウロ、ヒメサユリ、ウサギギク、ここには飯豊のすべての花があればいい。先頭で歩くY似で猪使いの巫女が草むらを叩く度、それらの花弁がちぎれて舞い上がる。自分の帽子も飛ばしたが、それには気付かず、後ろのどちらかの郵便夫が拾い、もう片方の郵便夫に被せて進んだ。この一瞬が永劫なのだと私は思う。幸も不幸も無い。とその時、三番目を歩く猪が滑った。残雪を横切る道で滑って転んで、担いでいた薪を雪の上に散らばらせながら滑り落ちていく。大変地味な花火のようだ。おそらく猪の全身を覆った毛というのがワックスを塗ったボードのように滑り易く、加えて滑り落ちるのを邪魔しない丸い体躯だからだ。つまり止まりそうな緩斜面でも止まらずに滑り落ちていく。しばらく待ったが、雪田の斜面の下から猪が姿を現すことはなかった。作為か不作為かは分からないが、猪は荷から解放され、そして自由を得たわけだから戻ってくるわけがない。

「滑落して死ぬ猪などいません。もし雪渓で滑って死ぬ猪がいるなら、雪渓の下で待っていれば猪狩りができることになります」

明るい内に本山のテント場まで着きたかったので、そう促して歩き始めた。もう一匹の猪は寂しく思ったろうか、それとも羨んだろうか。あるいは三匹になるまでの時間の猶予を喜んだろうか。薪を担いだその背からは察し得なかった。