オッド・アイ Tの猫とその一味第52話「梅花皮小屋にて」

北股からの下りこそ軽率な輩は要注意である。左は急な崖になっていて、べろっとしていれば容易に滑落する。奈落の底のように見える石転びの雪渓まで落ちて、そこから今度は45度の斜度の雪渓を転がり落ちる。石転びの出会いに憚る大石にぶつかってバウンドして門内沢の出会いまで飛んでいき、落ちた衝撃で雪が割れ、下をゴンゴンと流れる沢に飲み込まれれば、亡骸が見つかるのはずっと後、ずっと下流の温平の砂防ダムに浮くまで何ヶ月も掛かる。「慎重に一歩一歩」と特に猪に声を掛けた。朳差の水場と訳が違う。もし門内沢の出会いまで転がっていけば、運良く無事でも梅花皮小屋まで戻ってくるのに半日は掛かる。怪我をして動けなければ、通り掛かった小国のマタギにズドンとされて、今日中に鍋に変わるだろう。

「猪!慎重に一歩一歩」

「今や私はホリデーです」

そう猪が言った瞬間、やはり前脚が滑って転がった。幸い左の崖側に落ちずに鍋になる運命は免れたが、ころころと丸い体は歯止めが利かず、ハイマツの間の登山道を加速をつけて落ちて行って、梅花皮小屋の前の小さな管理小屋にズドンと当たって止まった。管理人の、おそらくSさんが驚いて出てくるのが見えたが、我々がそこに到着するまで15分掛かった。その15分の間に猪は鼻に傷テープを貼られていたが、多分ぬるぬるしているのですぐ剥がれるだろう。

私はSさんに礼を言い、今日の宿泊を頼んだ。Sさんは私の知る限りの小屋番の中で最も無口で最も登山者の都合を優先する人だ。いつぞや三人のテント泊縦走の際、夜は荒れる予報だからあまり酷くなったらお金は良いから小屋に逃げ込むように言われたことがある。

「猪は小屋の中で寝ても良いですか」

「ああ、ホリデー。既に事情は聞きました。夜鼻が痛み出して眠れないようだったらこれを飲ませてください。ロキソニンです。それから貴方に手紙を預かっています。今年小屋を開けた3日目に石転びから登ってきた郵便夫が持ってきました」

北股岳の陰にとうに陽は隠れて薄暗がりの中で私は手紙を読んだ。

「十二月の手術のことはお知らせしましたが、それから新しい年となり、施設から何の連絡もないので平穏なのを喜んでいました。しかし、下旬なって連絡があり、施設の担当医S先生から容態の悪化を知らされました。そして一週間後、再び先生からお話がありました。入院して検査、手術する必要はあるが、その体力はもう無いだろうし、本人も病院に行くのを嫌がっているようだとのこと、私はこのまま三年慣れ親しんだ施設で最後を迎えることを望みました。それによって「看取り期間」となり、今までできなかった面会ができるようになったので、週末には妹が来ました。妹はすぐ東京に戻りましたが、仕事を調整してまた帰り、その後はわずかな時間でしたが毎日面会しました。叔父叔母も連れて面会に通って一週間程した頃、S医師から一日か二日の命だと告げられました。その言葉通り、翌日午後3時に死亡しました。面会して戻ったところに危篤の電話があり、叔父と妹と駆けつけましたが、既に息を引き取っていました。3日後に火葬、葬儀、半月経った今も現実味が無く時間が過ぎています。ただこの三年間ほとんど会えなかった父の遺影を毎日見ていると、不思議と安堵の気持ちがあるようです。もう心配しなくても良い、もう苦しまなくて良い、ということなのかもしれません。この手紙をあなたが読むのはこの夏の7月でしょう。飯豊縦走の途中、梅花皮小屋辺りでしょう。弔えない死は知らなくて良い事の一つです。明日梅花皮岳を通る時、その三角点標石にハクサンシャジンを一茎載せてください。それで結構、それが知らせを受け取った証拠となるでしょう」

小屋の二階の方があとから宿泊する人が来ても邪魔されず落ち着くのだが、もう誰も来そうにないし、特に二階の往復は猪には難儀なので、一階の隅に我々は荷物を置いた。先ずはザックから水筒を出して水を汲んでくる。猪には水筒に紐を付けて首に掛けた。梅花皮小屋の水場も良い水場だ。近いし、そこまでの笹薮の中の道も良いし、水量も豊富だ。梅花皮岳の斜面の湧水がパイプを通じて水槽に入り、そこに開けた穴から水がほとばしり出ている。水槽は古くなった浴槽を再利用したものなのでこんな張り紙がしてある。

「この中に入っての水浴は禁止します。もしそういう事態を発見した場合、脱いだ衣類を没収します。つまり裸でザックを背負い、石転びを下ることになるでしょう」

私はそれを三人に伝えるため声を出して読んだ。

「裸にザックは体裁が悪いですね」

「靴とアイゼンとピッケルだけは返してもらえるそうです。でも裸ですからちんちんがすぐに冷えて、片手で包むにようにして雪渓を下りなければなりません。門内沢の出会いまではそんな感じです。それから先は登ってくる登山者に会わないように歩きます。登ってくる人の気配があれば藪に隠れて行き過ぎるのを待ちます。裸でザックなら水槽を浴槽にした大馬鹿者だと分かって軽蔑されるだけですからね」

 それから食事。飯豊では食事を供する小屋はない。私のザックには朳差の管理人室に保管されていた大量のアルファ米を入れてきた。おそらくK氏が生前機会ある毎に運んだものだろう。賞味期限はとうに切れている。

我々は猪を壁際に寝かせた。そして反対側に転がってこないようにザックを置いた。丸い胴体は寝るのに不安定で、夜中に転がると厄介だと思ったからだが、私が眠れぬまま闇を見ていると、その猪がのっそり起き上がる気配があった。暗闇に猪なので目には見えないが、その鼻息で玄関の方に行くのが分かった。私も用を足すために外に出ると、北股の急坂を登る猪が星明かりの下に見えた。どこに行くのか、寝ぼけているのか怪訝に思いながら、シルエットとなった大日岳を見て笹薮に放尿した。しばらくしても猪の戻る気配がなかったので、後を追って少し登ると、道の脇の藪に頭を突っ込んだ猪がいて、その脇にはヒメサユリの花が二輪三輪と落ちていた。私は足元の石を拾ってぶつけてやろうかとも思ったが、そのまま踵を返した。これが猪の本性、性であろう。それにずっと郵便夫を引っ張ってきた努力も斟酌しなければならない。私は猪が戻る前に床に入った。そしてこんな歌を思い出した。「禁じられても会いたいの 見えない糸にひかれるの・・・・闇の中を駆けてゆきたい わたしなのよ」

その歌のためか、猪が戻ったのも知らずに眠ったようだ。四時起床のつもりが五時となって明るくなってきた小屋の中でもそもそと起き出した我々は、猪が寝ている場所に人間が寝ていることに気付いた。それはY似で猪使いの巫女であった。猪はどうなったかというと、ぐるぐる巻きにされて転がされ、玄関に繋がれていた。