オッド・アイ Tの猫とその一味第40話「ずっと7月」

鉾立峰から小屋までは指呼の間だが、登山者は道草をしてすぐには小屋に着かなかった。

「あれ、道を逸れて草むらに入りましたね。ニッコウキスゲの花の中を歩いています」

「縦横無尽に歩き回っています。ニッコウキスゲが沢山倒れますね」

「だいぶ興奮して喜んでいます。私も最初見た時はだいぶ喜びました」

「でもニッコウキスゲが倒れます」

「いいんです、いいんです、猫ですから」

「猫だといいんですか」

「そうです、半分猫だから仕方ないんです。猫の世界でだめなのは、ミミズを何匹も丸めて団子にして、それで罠を作ってモグラを捕まえることだけです。それだけは法律で禁止されています」

「どんな罠を作りますか」

「ミミズの団子を土の上に置くだけです。するとモグラはその臭いを嗅ぎつけて、土に穴を空けてぽこんと頭を出します。それを捕まえるのが楽しいです」

「もぐらはうまいですか」

「普通です。ネズミと同じで、捕まえる方が面白いだけなんです」

「アケビ取りも同じです」

我々は登山者の様子を見るために、高い所に移動した。小屋の一階から二階に上がり、それから外に出て、朳差に登った。朳差の斜面でも何度も足を止めて振り返り、登山者の様子を見ようとしたが、鉾立峰と朳差の間の最低鞍部に入ってしまうと、朳差の頂上からでも登山者の姿は見えない。再び姿を現すまでよほど時間が掛かったので、その鞍部に広がる花畑でも大変喜んで縦横無尽であったのだろう。

「来ました来ました、やっと来ました。おや、でもまた戻って花畑に入りました」

「いいんですいいんです、猫は黄色が大好きだから仕方ないんです」

「ああでもああして遊んでいたらやはりここの山小屋泊まりですね」
「おや、また寝転がりましたね。もしかすると新しい日記係ではないかもしれません。あんまりのんびりし過ぎます」

「すると普通の登山者ですか」

「いえ、普通の登山者ならあんなに喜びません。喜んでも声に出す程度です。多分あれは郵便夫です」

彼が誰であれ、私の今日の義務から免れる理由を齎すわけではないので、私はその日三回目の水汲みに行くことにした。戻る頃にはいくら遅くでも到着して、新しい日記係かどうか判明するだろう。

水場に行く斜面にもニッコウキスゲが咲いている。蕾はまるでバナナなので、私は南国の植民地で働く農夫のようでもある。

戻ってくると、一人の登山者が小屋の玄関の前に咲くニッコウキスゲの花の匂いを嗅いでいた。彼がさっきの人間だとすればよほどこの花が気に入ったらしい。

「こんにちは」「こんにちは」と我々は挨拶を交わし、男は玄関の前に置いたザックの中から一通の手紙を取り出した。

「本物の貴方から手紙を預かりました。私は郵便夫です」

「本物ということは、私は偽物ですか」

「偽物ということでもないですが、本物ではないです。そういう解釈をしてください」

何の変哲もない白い封筒と白い便箋、私が封を切って読み始めると、郵便夫はまたニッコウキスゲを嗅ぎ始めた。

「犬がいなくなって父が入院しました。子猫が犬の小屋に住み始めました。犬が居ないことに気付いたのは、筑波山から戻った翌日です。綱が途中で切れていて、犬小屋の中に犬はいませんでした。そしてその日、父が明日入院することになったと施設から電話がありました。胆管炎です。犬の出奔については合点がいかないので、いつ戻っても良いようにシャッターは常に開けています。もう老齢ですから以前のように吠える元気もなく、たとえ綱が切れたとしても、逃げ出すようなことはなかったのです。逃げたとしても翌朝には戻っているのが例でした。散歩の最中に綱が切れて逃げ出し、目も悪くなっていたために戻れないのかとも思いましたが、そうではないことをTから聞いて確かめました。いつ戻ってきても良いようにシャッターは閉めないでいますが、そこに事情を知らない野良の子猫が入って犬小屋を寝床としているのです。万が一戻った時、お互い驚くでしょう。しかし、二週間も経ち、その間に初雪も降りました。帰還は諦めた方が良さそうです。父の方は最初は抗生物質を点滴に入れて安定していましたが、また発熱して内視鏡手術で胆管の中に管を通す手術をしました。無事終わって今落ち着いています。ただ、次の手術もありますので、退院はまだ先です。以上取り急ぎ近況をお伝えしました。お元気で」

手紙を読み終えて郵便夫を見ると、花の匂いを嗅ぎ過ぎて、鼻は黄色い花粉に染まっていた。これからは鼻黄色の郵便夫と呼ぼう。

「麓はもう冬なのですか」

「そうです。貴方がここでべろっとしている間に関川には冬が訪れました」

「ここはまだ夏ですが・・・」

「そうですね。朳差岳は731日の次は71日です。つまりずっと7月です。だからニッコウキスゲが常に咲きます」

「まるで桃源郷ですね」

「でも咲いてばかりで実をつけることはありません」

「それにしたって七日間だけの隔離だという話でしたが」

「そうです。そうやって騙して連れてくれば、大概はここが桃源郷の思えて最後までいる。屍は栄養になってきれいな花を咲かせ続けます」

そういうと黄色鼻の郵便夫はまたニッコウキスゲの花の中に鼻を突っ込んだ。

いずれ一輪一日の花の糧となるなら結構である。下界のことは本物に任せて、偽物はそれらしく水汲みをしていれば良いのだから。

私は気持ちの整理を付けるために朳差に登った。小屋から頂上まで五分と掛からない。