オッド・アイTの猫とその一味第71話「郵便体操」

 猪の体は衝撃に強い構造になっているのか、岩場から転げ落ちるとすぐ藪を漕ぎ始めた。二匹目も転げ落ちてやはり藪を潜って進み始めた。最初から藪を漕ぐべきだったかもしれない。私は猪の落ちた辺りを慎重に登って御秘所の上に立った。御前坂の九十九折をバナナ登山者達が一本の蛇行した線となって下りてくる。そして道の脇に立って、登ってくる我々に道を譲る。今までように質問されたのではなかなか進まないので、私は下を向いて「ありがとうございます」とだけ言い、猪から距離を置かずに歩いた。Y似で巫女の猪使いが最後尾になった時には言葉を交わす様子だったから、本山と御西の間の事情も聞いただろう。
 本山小屋のテント場に一張りの黄色いテントが張られているのを見て、私は妙な感じを受けた。夏なのに我々以外のテントを見たのはこれが初めてだ、と不思議に感じたのである。やはりこれは夢なのかと。
黄色い二、三人用の小型のテントは、あちこち膨らんで凹んで、凹んで膨らんで、中で数名が暴れているようだった。すると一人の人間が飛び出てきて私の前に歩いてきた。
「はい、これを渡します。私は郵便係です。今まで郵便体操をして待ってました」
宛名は私の名前だったので受け取らない理由はない。しかしなぜ私だと分かったのだろう。そんな疑問を察したように
「分かります、分かります、臭いで分かります」
「貴方は鼻黒ですか」
「鼻黒とはなんですか」
「元々猫で人間になった人間です」
「そうですそうです。郵便係は第二番です。これで仕事が終わったので、私は帰ったら今度は灯台係です」「二番とか自分の希望ですか」「そうですそうです、郵便係になれば世界のことが良く分かります。灯台係になれば自分の事が良く分かります。そして最後は学者が希望です」
「ところで全然黄色くないですが、黄色くならない方法はありますか」
「無いです無いです。私は大嵓尾根から上がってきたので黄色くないです」
「大嵓尾根なら大変でしたね」
「そうですそうです、でも一日で登るところを三泊四日できました」
「水場は無いでしょう」
「無いですが、探します。もともと猫なので嗅いで探します」
「では私たちと一緒に来てください」
「困ります困ります、私は次に灯台係です」
「灯台係は良いですか」
「はい、昼は魚を釣って自分について考え、夜は星を見ながら自分について考えます。考えて考えて教訓の無い童話が人生だと分かるでしょう」
「いつ寝ますか」
「三人交代なので、魚釣りの当番でも灯台の当番でもない時寝ます」
 私は説得を諦め、手紙を届けてくれたお礼を改めて言って、小屋の方に足を向けた。郵便係がテントに入ると、さっきと同じようにテントはあちこち膨らんだり凹んだりしたので、私は踵を返してテントに近づき、入口のファスナーを少し開けて中を覗いた。郵便係は単に前転を繰り返しているだけだった。ただあまり真剣にやっているので、それが郵便体操かとは聴けず、そっとファスナーを閉めて仲間の後を追った。そして彼らが休んでいる小屋の庇の下に行き、ザックを下ろして手紙を読んだ。
 ―私もコロナになりました。いつも七月の朳差に、これでようやく行けると思いましたが、今現在、そういう隔離は流行っていないと言われました。私はただ家に籠って喉の痛みに耐えるだけでした。喉の痛みというのは人を厭世的にします。呼吸が嫌になります。なぜ貴方はあの時あんなことを言ったのか、言えなかったのか。貴方というのは私のことですが、私が分からないから貴方に聞くのです。胸が張り裂けそうな後悔を持ったまま生きていくのは簡単ではないですが、夢ではないと思えば耐えられます。これ以上罪を作らないことが罪滅ぼしと思い、猫棒(猫車)の先に釘の代わりにスポンジを付けました。猫はどんどん増えています。早春の暖かい日には風除室が猫で埋まります。ガラスが日差しを更に温め、風除室が温室のようになるからです。白、黒、茶色の、粗雑であるが厚みのある生きた絨毯です。私はそこに横たわってごろごろ回転したい衝動にかられますが、我慢します。そして一匹の猫も踏まないように、つま先を猫と猫の隙間に入れて、そのつま先を左右に足を動かして足が入るスペースを作ってから一歩ずつ進みます。今年の冬は今のところ少雪で助かっています。村のスキー場は三年前に閉鎖されたので、今や雪の利点は何一つ無いのです。この冬家の周りの除雪をしたのは七日位でしょう。ただ一月は同じ集落の従兄が亡くなり、その葬儀の日にその従兄の母、つまり伯母が亡くなり、その葬儀で感染ったのか、コロナに罹り、バタバタとした月でした。運が悪ければそのコロナで死んでいたかも知れません。ワクチンを七回きちんと毎回打ってきたので軽症だったのかも知れませんが、いつ何があるが分からないということを一歳上の従兄の死は教えてくれました。春を待たず、要らない物は少しずつ捨てるつもりです。先ず作業所の二階にある使わない物を軽トラで檜原に運びます。捨てられず東京から運んできた物など、私が捨てなければならない物が沢山まだあります。
 雪が無いので、水道の元栓を閉めることも容易です。猫車を押して猫を掻き分け(まるで南極に行く南極観測船が氷を砕いて進むように)元栓を開け閉めするのもルーティンになりました。ー