「ハリギリハマナスハリエンジュ、ナツメタラノキアリドオシ、サンショウサンザシサルトリイバラ、カラタチサイカチピラカンサス」と唱える者がいた。本人も長く忘れていただろうし、私も猪の存在さえ忘れていたが、長い縦走の終わり、朳差岳を指呼の距離にして、思い出すべき事を思い出したというべきあろう。災いを免れる呪文を忘れて災い無くここまで来れたことに感謝した。「ハリギリハマナスハリエンジュ、ナツメタラノキアリドオシ、サンショウサンザシサルトリイバラ、カラタチサイカチピラカンサス」我々は復唱した。ここが朳差岳までの最後のピーク。昔の事を思い出せば眠れなくなり、未来を思っても、その道のりは厄介で煩雑で、憂鬱な気持ちになるが、今を一生懸命生きない理由にはならない。朳差に向かって鉾立の急斜面を下りれば、もう花が沢山咲いていて、そんな気持ちを肯定してくれるようだ。ニッコウキスゲにハクサンフウロ、イブキトラノオとミヤマトリカブト、ヨツバシオガマ、タカネナデシコ。
小屋が大きく見え始めると、その下で手を振る二人の姿も見えてきた。ずっと振っていたが、疲れるのか、交互に振ったりもした。それがバカンスとバケーションかと思った時、私は彼らとの約束を思い出した。約束があったような、無かったような、それが分からないから、果たせたかとどうかも分からない。彼らも忘れていれば、それは無かったことに等しい。
小屋の前に着いた順に用意されていた水をがぶ飲みした。小屋の前には鼻黒医師もいて、その様子をにこやかに見ていた。
100人の郵便夫には100通の手紙が託されたが、重要な物は一通も無かったので、希望した者は小屋に留まった。ただ、下山しないと一級昇格にならないので、一週間くらいの間に半数が下りた。15人が一階で寝て、15人が二階で寝て、あとはニッコウキスゲを布団代わりに外で寝た。外で寝るのを好む者と中で寝るのを好む者とがいる。私は朳差を越えた長者平の池塘の脇の草むらで寝た。征平さんはここの池塘の水を汲んで飲んでいたが、コップの水はコーヒーのような色をしていた。煮沸すれば問題無いと言って平気だったが、そのコップに蛾が飛び込んでも、それをすくい出して飲んでいたので、飲めないものは無い様子だった。
オッドアイTの猫とその一味第96話「池塘コーヒー」
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