オッドアイTの猫とその一味第73話「また一難」の巻

本山からは二日前には見えなかった景色が広がっていた。何が見えて何が見えなかったかははっきりしないが、縦走路の果て、我々の目的地、連なる峰々の先の朳差岳まではっきり見えている。「今日はあのとんがり、北股岳の手前で泊まります。普通に歩けば明るいうちに着くでしょう」そうは言ったものの、自ずと目が行くのは、御西岳の間に横たわる黄色い帯である。ニッコウキスゲの密な群落が目視で数百メートルは続いている。普通であればその美しさに感嘆の声を上げるところだが、ここに来るまでに沢山の登山者から苦労話を聞いている。その帯の上を時々煙のようにたなびくのは花粉に違いない。風向き次第では帯に突入する前に花粉にまかれることになるだろう。本山から下って登り、駒形山からはいっそ天の川のように広がる黄色い帯が眼前に迫る。私は二本のスリングを出して一本に繋ぎ、同行者を1メートル間隔で繋いだ。こうしておけば花粉帯の中でもはぐれることなく進めるだろう。「タオルか手ぬぐいを口に当てて行きましょう。顔に巻いておくのも良いでしょう」

猪2匹の鼻には手ぬぐいを巻いた。呼吸は多少苦しくなるかもしれないが、ぬるぬるしている彼らの鼻は、何もしなければあっという間にきな粉をまぶしたつきたての餅のようになるだろう。「いざ行けそら行けどんと行け」私は心の中で自分自身に気合を掛けた。

過ぎてしまえば全ては夢のようである。私が私の置かれた状況を理解したのは、猪の悲鳴が耳に入ったからである。つまり目を覚ますと、ぐるぐる巻きにされた猪が、その尻尾に火を点けられるところであった。猪の尻尾はまるで導火線のようで、するとぐるぐる巻きの胴体は大きなダイナマイトだ。

「あなた方の命はヒメサユリの球根と交換です。三国の小屋で手に入れたヒメサユリの球根を出さなければ、あなた方はバナナの燻製です。この尻尾に火を点ければ、この小屋はやがて煙に満ちてバナナの燻製が一本二本三本、四本五本六本とできあがります」

「バナナの燻製はおいしいですか」

「分かりません。もったいないので考えただけです」

燻製の煙を出す猪もまっ黄色だが、その毛はよく燃えて良く煙を出すだろう。花粉地獄の後に煙地獄、全く今日の我々はついていない。ヒメサユリの球根を渡せばそれで済むのだが、先刻の花粉地獄の中で我々はそれを失っていた。ザックを失い気も失ったところを確保されたらしい。はぐれないよう結んだスリングは今や各個を捕縛する格好のロープになっていた。猪の尻尾の導火線に火が点けられてしまえば、我々は燻製になるまでほったらかしになるだろう。猶予はないので

「ヒメサユリの球根の球根なら、その猪の体の中です。導火線に火を点けてしまえばヒメサユリの球根も真っ黒焦げです。その猪は生きているように見えてもぬいぐるみです。腹のどこかにチャックがあるので、ぐるぐる回して探してみてください」

猪はごわごわの深い毛に蔽われているし、更にまっ黄色の花粉がベトベトに掛かっているからごろごろ回すのだって容易でない。そして何よりチャックは無いから時間が掛かる。その時間の間に逃げるかやっつけるかしないとならない。