(少し改めました。)
私はとにかく無事に、できれば一刻でも早く広河原に着いてくれと祈るような気持ちでいた。バスが止まって、後ろのドアが開いた。停留所の看板を見ると「鷲ノ住山」と書いてある。昔、ここでバスを降りて沢伝いに間ノ岳、そして北岳に登ったことを思い出し、誰かに話したい欲求に駆られた。すると後ろの方で聞き慣れたリズムが聞こえてきて不安になった。空耳であってくれと願ったが
「ずいずいずいずい随喜のダンス、心のままに体のままに、歌えよ踊れよ心が晴れる、昨日見た夢三度笠、旅する乙女は饅頭笠、行きたい場所に花が咲く、立ちたい場所に風は吹く、ずいずいずいずい随喜のダンス、以下繰り返し」
見たくはないが振り向くと、やはりドーナッツ襟巻をした彼女と鼻黒猫とが通路で踊っている。鼻黒猫の方も前衛をだいぶマスターしたようだ。私は注意することを促すつもりで鼻黒車掌に視線を送った。一蓮托生を避けたいと思えばここは着席させないとならない。ところが
「行きたい場所に花は咲く立ちたい場所に風は吹く、夢であっても夢でなくても」
と同調している。そして「ブラボービューティフル素晴らしい美しい」スキップ草まみれは囃し立てる。
「カオスだな」と思ったが、カオスを傍観できる立場ではない。それにしてももはや正気とは思えない田町さんはドーナッツ襟巻に操られているのだろうか。あるいは追従しているように見えるスキップ草まみれ鼻黒の仕業なのか。
私は振り返って
「田町さんがここに居るということは歴史館は誰が!」
「そうですね。忘れていました。残念です。でも残念な事ばかりですわ。毎日毎日、フライパンに並んだ餃子のように残念なことばかり。だからせめてみなさんの行く山が晴れるようにここに来ました」
その言葉に感動したのか池端会長が立ち上がって拍手をした。
「ブラボービューティフル素晴らしい美しい」と草まみれは声を上げる。つまり更に盛り上がってしまったので、私は前を向き、腹の前で両手を合わせてなんとか転落しないよう進行することだけを祈った。
「行きたい場所に花は咲く立ちたい場所に風は吹く、夢の中でもうつつでも、旅は道連れ世は情け、袖すり合うも他生の縁、行きたい場所に花は咲く立ちたい場所に風は吹く」
確かに旅は道連れだけれども、と私は思う。コロナ禍が続く今は予約しないと山小屋には泊まれない。二人が広河原から先もついてくるとなれば、すぐにでも追加の電話をしなければならない。私はそっと携帯電話をポケットから出して、やはり電波が無い事を確認した。窓の外の崖にヤマホタルブクロの紫がやたら目につき、夏の盛りであることを今更教えた。
「父も夢見た母も見た 旅路のはての そのはての 青い山脈 緑の谷へ」
ふとそんな歌を思い出した。父が良く歌っていた歌。
「死がすべての落着で、落とし前をつけてくれるならそんな簡単で楽なことはないけれど」
誰の声だろうか、後ろで言った。私はなぜかバスは崖に落ちることはないと、それを聞いて確信した。たとえ落ちても、落ちる瞬間に目覚めるだろうと。
目覚めてから、歌詞の続きが思い出せなくて、寝たままスマホで調べてみた。
「若いわれらに鐘が鳴る」と続き、これが四番まである歌詞の最後だった。
夢で目覚めて昔の事を思い出すと容易には眠れなくなる。そんな時は枕元の本棚の歳時記を開く。山本健吉の「句歌歳時記」でも良い。今が春なら秋の項、夏なら冬の頁を開いて読む。脈絡がないので読み疲れ、明かりを点けたままいつの間にか眠っている。
「夢かどうか分からないから、どうでもいいことはしなくていいのよ。だって無駄でしょう」
バスの中で誰かが言っていた。石松さんは広河原に着くまでずっと寝ているだろう。
「どうでもいいこととそうでないことが分かるのに百年で足りない人と生まれた時から分かる人といるだけです」私は布団の中で思って、そして起きることにした。つまり一生分からない。
パソコンに入っている鷲ノ住山から登った写真を改めて見て、これがいつだったのかはっきりした。写真に日付もなく、日記をつける習慣もなかった時代のことなので、いつ行ったか分からない山行のひとつだったが、余ったフィルムで撮ったであろう写真に西船橋のアパートの写真が数枚あって、そこにカレンダーが写っていた。7月8月のカレンダーを拡大すると、ぼやけるが1986と読めた。1986年だと大学を卒業した年だ。そんな遅かったかと腑に落ちなかったので、この年のカレンダーをネットで調べると写真と同様の曜日並びだった。テーブルに置かれた小学生用の漢字辞典も写っていた。Mの紹介で春から上板橋の塾で働きだし、最初小学四年生の国語を持ったが、一番苦労したのは漢字の書き順だったので、多分こんなものを買って勉強したのだろう。ただ、この山行、ほとんど記憶にない。鷲ノ住山のバス停の看板、吊り橋(野呂川吊り橋)、滝の脇を登る写真、河原での幕営、長いロープを輪にしたのを首から下げたSさん、森林限界を超えた雪渓でのテント泊、間ノ岳頂上、中白根岳頂上、北岳の小屋が小さく背後にある写真、北岳山頂、肩の小屋のテント場、河原での着替え、とルートを辿れる写真はあるが、二泊三日の短くはない山行の記憶は全く無い。ただうっすら覚えているのは、鷲ノ住山でバスを降りたのが、沢山の乗客の中で我々だけだったことだ。地図を広げてみると、バス停から鷲ノ住山を登って下って野呂川までしか登山道は無い。そこから吊り橋を渡って発電所を通り野呂川支流の荒川、北沢、最後は滝ノ沢を詰めて間ノ岳に到達したのだろうか。曖昧な記憶が写真に吸収されてしまったのか、あるいは、ただ迂闊に生きていたのだろうか。
Sさんの遭難碑があったのは間ノ岳か北岳なのかと以前の夢をふと思い出した。しかし、山の雰囲気が違うし、多分諏訪の街は見えない。
家周りから雪が消えると糞だけが残る。それを片付けてから遅ればせながら冬囲いを外した。春慎重派であり、先憂後楽がモットーでもあるので、私は仕事が遅い。冬タイヤを外すのも大概連休後である。連休中に雪のある所に、例えば大日杉の登山口とかに行くことも想定してだが、つまりは面倒なだけなのだ。音痴だ、下手だと心の中で馬鹿にしていた田町さんの歌がなぜか耳から離れなくなって、囲いを外しながら無意識に口ずさんでいたりする。「行きたい場所に花が咲く 立ちたい場所に風は吹く」のフレーズを繰り返している。CMソングが耳から離れなくなるように、馬鹿馬鹿しいと思いながら口ずさんでしまう。そうして、外した冬囲いの資材を台車に積んで行き来する様子を、ドーナッツ襟巻をした犬は犬小屋の前で横たわって見ている。どんな格好で寝てもドーナッツ襟巻は枕になる。一日の大半を寝て過ごす犬には最適のアイテムと言えよう。
犬はこんな生活を10年以上も続けている。最初は家の中で父と寝起きを共にしていたが、その父も介護が必要になってからの犬小屋生活。人間なら悟りの境地にも至ろうというものだが、問題意識を持たない犬は、相変わらず通りかかる猫たちに吠える時だけ立ち上がる。無邪気で本能的で、自由で義務の無い猫生活は、能天気な犬にさえ妬みの対象となるのだろう。屈託が無ければ悟りもないが、悟らなくても楽に生きられる世界もある。だから、なにをあくせく明日をのみ思い煩う、と私を眺めているのかもしれない。行きたい場所に花が咲く 立ちたい場所に風は吹く」自由を求めて不自由になるのは、鎖から放たれても犬小屋に戻るのと同じだ。