オッド・アイ Tの猫とその一味 第八回「変で良い襟巻」

会場の体育館に着いて準備をしようとすると、靴を忘れたことに気づいた。更衣室に戻って探したが見つからない。一緒に来た人たちはもう卓球台で球を打ち合い、試合前の練習をしている。裸足でもいいかと思いながらもバッグをもう一度探すと衣類の下に尊徳があった。道理で重かったと思いながらもここに持ってきた理由は分からない。靴と間違えたとしたら、靴は車の中にあるのかもしれない。それが無くてもランニング用の靴はあるはずだから車まで戻りたいが、尊徳をここに置くのは不安なのでタオルで包んで持っていくことにした。車の中に置く方が安全だろうと思ったからだが、体育館の出口に向かいながら猪がいないかと館内を見回すと、卓球台の下に隠れてこっちを伺っていた。練習をしている卓球台の下に潜り込んで猪を捕まえこともできないし、猪も黙って捕まえられはしないだろう。とにかく車に置いて鍵を掛ければ一安心だと体育館を出る。すると玄関で二人のガードマンらしき人間が荷物検査をしている。彼らの前のテーブルに荷物を置いて中を見せないと外に出られないようだ。ここで引き返すとかえって怪しまれるから進むしかないが、尊徳の頭をどう説明したものか。振り返ると体育館の観音開きのドアの隙間に猪の鼻が挟まっている。やはりこちらの動きを伺っているのだ。
「これは縁起物なので車に置いてきます」とタオルを広げながら言うと
「縁起物というのは」驚いた様子のガードマンは言う。
「これを試合会場に持っていくと勝てます」
「はあ、だったらずっと置いておけば良いのでは」
「いや、一回持っていけば良いので。それにずっとそばに置くと重荷になります」

「重荷か。重いわけですね」

「応援してくれるわけでもないし」

「これを持ってきた場合の勝率はどれくらいですか」
「百パーセントです」
「はあ!では優勝ですね」
「優勝どころか、オリンピックで金メダルでしょう!」ともう一人が言う。

「まあ、今のところ百パーセントですが」
「今のところというと」
「村の大会で優勝しました」

「ほお!大したものです」

「三回勝つと優勝です」
「すると参加数は8人ですか」

「はい、ただ3勝のうち一回は不戦勝です。相手が試合前の練習で足を挫いて」

「でも優勝は優勝です。荷物をお預かりしますので、ここに住所と名前と連絡先を書いてください」

「いや、預かってもらわなくていいです。車に置くだけなんで」
「いや、そういうわけにはいきません。ここは荷物預り所なんで」

尊徳をタオルに包もうとすると、ガードマンがそれを止めようとして手を出した。その手には蠅叩きが握られていた。やはり、このプラスティックの蠅叩きでないとだめなのかと私はなぜか納得した。

「是非、預けてください。預けてくれれば担保が付きます」

「担保って何ですか」

「そこに書いています」

ガードマンが蠅叩きで示した所のホワイトボードには張り紙があって、こう書いてあった。

お預かりした荷物の担保は以下の三つからお選びください。

①願い事を一つ叶える。

②長生きできる。

③隅餅が拾える。     

③は論外だし②も長生きすれば良いというものでもない。

「①はどんな願いでも良いのですか」

「まあ、内容によります。こちらもできることとできないことがありますから」

「では、ハーフを1時間で走れるようになる、というのはできますか」

「ハーフってキャロライン洋子とかですか」

「いや、マラソンの半分のハーフです」

「はあ、なるほど、ちょっと待ってください。聞いてみます」
ガードマンはズボンのポケットからスマホを出して電話を掛け始めた。
こんな担保を付けるくらいだから尊徳は預けたら最後戻らないだろう。ただ、ハーフを1時間で走れるようになれば大概のマラソンは優勝できるし、日本の中でもトップランナーにもなれる。尊徳はもともと邪魔な物だったから、なくなったって一向構いやしない。
「大丈夫です」と電話をし終えたガードマンは言った。
「分かりました。では預けます。ここに名前と住所と連絡先ですね」
ガードマンとのやり取りを猪が逐一見ていることは知っていた。強引に取り戻した尊徳をあっさりと引き渡すと思っているだろう。私が分からなかったのは猪とガードマンの関係だ。同じ旅芝居一座の一味なのか、それともガードマン達は猫股木宮尾病院一派なのか。別なら猪は次の手を打たないとならないが妙案も無いのだろう、ドアに鼻を挟めたままだ。そうやって鼻を挟めてドアが閉まらないようにし、その隙間から見ているのだ。

記入し終えた紙をガードマンに渡すと、尊徳を包んでいたタオルを返してくれた。尊徳は既にどこにも見当たらない。もう一人のガードマンがどこかへ運んだのだろう。

「その襟巻は何の毛ですか」

「さあ、会社の支給品ですが、そう悪い物ではないです。真夏でも真冬でも快適です。これを首に巻くようになってから人の悪口を言ったことがない」

「ああ、いい首巻ですね」

「そう、飯豊を十二往復しても得られない境地ですね」

「ああ、そういう話ですか」

そんな会話を続けながら、私は私を見張っている猪の視界から外れ、別な入口から体育館に入って猪の背後から近づき、思い切り尻尾を引っ張ってやろうと思ったが、肝心なことを思い出した。そう、靴を取りに行くこと、そして卓球の大会に来ていることを思い出した。玄関を出ようとすると、ドアの向こうに岡本が立っていた。応援に来てくれたのかと思ったが、それはガラスに映った自分の顔だった。

「死ぬ時は自分の顔で死にたい」と思った時、目が覚めた。

「自分の顔で死ぬためには今何をすれば良いのか」と目覚めてからずっと考えていた。考えても分からなかったが、それは簡単なことではないとは思った。
 それからドーナツ型の襟巻のこと。それを思い出して、変な形だと改めて思った。つまり、普通の襟巻のように一本の細長い毛皮でなくて、穴の開いた円形で、頭から被るタイプのように見える。だから端が無い。端が無いから(ドーナツがどこから食べても良いように!)前後左右の定位置を気にしなくて良い。「人の悪口を言わなくなる」という効果より、その仕組みに感心した。ただ、定位置は気にしなくて良いかも知れないが、人の目は気になると思った。それにしてもなぜ卓球なのだろう。なぜバドミントンでないのか。試合が始まらなかったから良かったが、次はバドミントンの夢が良いと思った。その時は靴を忘れないように。