オッド・アイ Tの猫とその一味 第十二話「うたかたの優勝」

猫に戻りたい理由の付け足しです。先般お話したように猫人生に屈託は皆無です。ですから一日が長い。今仕方なく人間生活をしていますが、人間のひと月分が猫の一日です。ですから猫の十年は人間の三百年です。僕は早く猫に戻って三百年のんびりしたいです。貴方が猫になれなかったのはお気の毒です。どうも。

 そんな葉書が次の日に資料館に届いた。「しがない村のしがない資料館の館長様」という宛名だから、自分で来て(多分スキップでなく普通に歩いて)郵便受けに入れていったのだろう。こんな宛名だから、私にこれを渡してくれた田町さんも文面を読んでいないわけはないのに、なにも言わなかった。関わりたくないのか、なにか関りがあるのか、いずれかだろう。そんなことをつらつら考えながら備忘録として反故紙にまとめてみた。
宮尾宮子―シャイン―三匹回し削除の依頼―オッド・アイの喉の玉

宮尾宮雄―シャイン―オッド・アイの捕獲―9月いっぱいのシャイン

田町町子―セニョリータ田町 

田町町子が鼻黒一族セニョリータ田町であるなら、この葉書を入れたのはもちろん、書いたのも彼女であろう。そうすれば全ての符号は一致する。一致しないかもしれない。

 もっと遡って

医師の来館―尊徳の頭・・・・

糞便の臭いがして、薄暗がりの中に目を凝らすとベットの手すりに茶色い物が付いていることが分かった。そして母の手にも。拭こうと思ったが、雑巾もない。ティシュではどうにもならないことは知っている。爪に入った便はお湯の入った洗面器に手を入れさせて洗わなければ落ちるものではない。雑巾を借りバケツを借りれば、やっと落ち着いた施設の人を騒がすことになる。私は情けない気持ちで母を見下ろし、その場を足早に去った。それが母との面会の最後、それからコロナで会っていない。偶に家に戻る母はまるで私を困らせるためのように、おむつの中に手を入れて、こういうことをする。責めると無意識でやったというが・・・。動けない母を右に左に転がすようにして動かし、糞便に汚れた寝具、衣類もすべて替えるのは大変だったが、やはり施設でも同じことをし、人一倍の迷惑を掛けている。申し訳なくて合わせる顔が無い、そんな気持ちで、もうなにか話す気も失い、廊下を歩いていた。

私はまた尊徳の頭を机上で撫でていた。箱から出して収蔵庫から持ってきたのだろう。確かに収蔵庫の棚にあるかときどき気になるが、その都度鍵を開け二階まで確認に行くのは止めようと努めているのに、いつの間にか見にいって、そして持ってきたらしい。撫でながら、母との面会をまた思い出していた。
 ブラインドの隙間から草だらけのスーツを着た鼻黒猫男が覗いているような気がして、外に出てみたが、たった今まで誰か遊んでいたのか、ブランコだけが小さく揺れていた。夕暮れの風のせいかもしれない。

なぜそれが最後の面会になったのか。お互いに二度の接種を終えた現在も面会はできないでいる。もう一年半会っていない。

薄暗がりで征平さんが手を合わせ祈っている。何を拝んでいるのかと不思議に思って見ていると、ふわーと煙が上がってタバコに火を点けただけだった。拝んだように見えたのは風除けに左の手をかざしたからだ。征平さんぐらいの人間なら天国には行ったのだろうが、天国でもやはりタバコはあって、止められないでいるらしい。もっとも天国ならどんなにタバコを吸っても健康の害になるということもないのだろう。そのうち征平さんはタバコを咥えながらピストルを高々と上げた。マラソンのスタートの合図らしいが、きちんとしたことが好きだった人なのに、咥えたばこで号砲を鳴らすとは天国というところは随分さばけた所だと感心した。私は心を落ち着かせて走り始めたが、これがフルマラソンなのかハーフなのか10キロなのか距離が分からない。隣を走っている人に聞けば良いのだが、ふざけた事を聞くなと思われそうで、なかなか聞けず、路傍の表示で判断することにした。ハーフのつもりで走って、途中でフルだと分かっても取り返しがつかないので、とにかく周りに合わせて走ることにした。すると後ろから横に並ぶ者があって、Yだった。えっ、いくらなんでもYと同じペースでは遅過ぎると思って、時計を見ると4分30秒のペース表示だ。練習で走っていればキロ6分がせいぜいなのに、これはもしや猪使いで巫女のYか。あの馬力で飯豊を駆け巡っていれば走力は付く。しかし、どっちのYにしろ、Yに負けたんでは面目がない、とスピードを上げようとしたが、今の力だと4分半が精いっぱいだ。するとするするとYが前になり、おやスピードを上げたと思っていると、その後ろに猪が二匹ついていく。やっぱり猪使いで巫女のYか。多分山占いが流行らなくなって、今度はマラソン占いでも始めるのかもしれない。Yと猪の姿は遠ざかっていったが、周りに人もまばらになってレースも終盤、民家の敷地や田んぼの畔を走って、畑の畝の間を抜けるとゴールが見えてきた。なぜか先を走る人はいない。もしかして一番なのかと思った時、襟巻一味との約束が蘇った。キロ3分で走るのと条件に尊徳の頭を渡したことを思い出した。そうか、途中からスピードを上げて一位になったんだ。独走状態でゴールテープを切ると、嬉しくて涙が出てきた。征平さんがいたら報告しようかと探したが見つからず、猪使いで巫女でない方のYも探したが見つからない。すると早速放送で私の名が呼ばれ、表彰式が始まった。やはり全体一位のようだった。賞状を読み上げるのは村上市長だろうか。メダルも大きい。大き過ぎる。大判焼きくらいだ。二位が呼ばれた。猪だ。多分巫女のYの後ろを走っていた猪。三位が呼ばれた。これも猪だ。つまり二位三位が猪で、何か急に嬉しくなくなってしまって、早く表彰台から降りたい気持ちになっていた。そして、浦島太郎が玉手箱を開いた時の気持ちで副賞の封筒を開けると「マラソン占い無料券」というのが入っていた。「二回目からは3000円。万が一当たった場合は一万円いただきます」と書いてある。これは猪使いでも巫女でもない方のYにやろうと思って表彰台を降りた。