オッド・アイ Tの猫とその一味 第20話「教訓の無い人生を歩みなさい」(改稿)

雪の上に猫の足跡が残っている。家と作業所と車庫と納屋を取り巻いて何本かの複数の足跡が雪の降った朝できている。足跡から猫の色を判別することはできないので、何匹通ったかは分からない。猫は建物に沿って歩き、所々に大便を残していく。猫が主に歩く軒の下は雪が少ないので大便は目立ち、スコップで雪と一緒にすくって、適当な場所に捨てる。相当数の猫が家主の知らないところで縄張りの主張をして、目的外の排泄をしている。かなり積もった朝でも猫の足跡は複数本残り、除雪をしない場所、納屋や家の裏側へは、深くぬかりながら、雪山登山で云えばラッセルして進んでいる跡がある。縄張り確保は猫にとって第一義のようだ。雪のある間は行けない納屋や家の裏の軒下にはたんまりと縄張りの印を置いて、春になったら住人をうんざりさせるだろう。

吹雪でもTは毎朝夕餌を運んでくる。あまりひどい吹雪の時は犬の散歩はしないようだが、猫の餌だけは忘れずに運ぶ。餌場の資材置き場は屋根こそあるが、作業所に付随した簡易な建物なので、雪が壁のように取り囲む。Tは資材と雪の隙間に入り込むようにして餌を置いていく。どんな努力も放棄したTだが餌だけは怠らず持ってくる。

冬の間、私は代わり映えのしない日記を点検させられる代償として、半猫からいろいろな話を聞いた。

「尊徳の頭のことは知りません。聞いたことがないです。猫人は偶像崇拝しません。全き唯物主義です」

「人間なんかは、虫のように一途にもなれないし、猫のようにぐうたらにもなれない。だからあなたを責めるわけもないのです」

「前世のことは良くは知らないです。知る必要もないのです。ぐうたらで半端な人間が私になって、私もこういう姿でこの世を生きるしかないので、あなたの轍を踏むも踏まないもないのです。あなたはこれからも教訓のない失敗をどんどんするでしょう。それはあなただから仕方ない。貴方がぐうたらな半端人間であればあるほど、私は立派な半猫になります」

犬には気を使うが私にはそういったところがないのは、やはりこの半猫生活に言うほど満足していないからだろう。

 阿賀北人は冬を耐え忍ぶ。寒さに耐え、雪下ろしをし、除雪をして生活を営む。せめて私は雪玉を猫にぶつけて気を紛らわす。食事にやってくる猫を目標にするのはいかにも薄情なので、そうでない時間帯にふらふらと意味もなく徘徊する猫を標的にして雪の礫を放つ。なるべく油断させて距離を縮めて狙いを定めてぶつけるも、残念ながらヒットしない。しかし、私を恐れされ、私自身を忌避剤とする効果はあるだろう。けれど所詮は雪だと思うのか、全く当たらないので高をくくるのか、やがて猫たちは私を見ても逃げなくなった。かといって近づけるわけでもない。慌てることなく私から距離を取って様子を見ている。「猫をかん袋に押し込んで ポンとけりゃニャンとなく ニャンがニャンとなく ヨイヨイ」山寺の和尚さんの気持ちが俄然分かるというものだ。
 そんな冬の間、資料館に鼻黒猫は全く姿を見せなくなった。移動手段の原付バイクがからきし雪道に通用しないからだろうか。彼らを歓迎する気持ちはさらさらないが、毎日資料館の駐車場の除雪をする際は、玄関の脇は殊更丁寧に除雪して原付バイクでも停め易いようにした。多分鼻黒猫は寒さも苦手なのだ。一切の活動を休止して、温かい部屋で暢気に過ごす季節と決めているなら新潟の冬も悪くないだろう。
「あなたは大便係です。いやいやするのが仕事ならあなたは猫の大便係です。仕事だから仕方ないですね。人間は100パーセント自分の不遇を嘆く生き物です。猫は100パーセント自分の不遇を嘆きません。でも稀に猫の中にも不遇を嘆きながら徘徊するのがいます。そういうやつはいつの間にかだんだん痩せて、そしてぺらぺらの毛皮になって風の強い日にどこかへ飛ばされていくのです」

 この冬は予想外の大雪だった。昨年大雪だったので今年は少雪だろうという根拠のない楽観は外れて、二月の下旬なっても寒波がやってきた。温暖化で日本海の温度が上昇すれば水蒸気も増え、大雪になれるのは理屈だが、いつまでも寒さが続く今年の冬は異常だった。吹雪の日、半猫も犬もじっとして寝床から動かない。半猫の尻尾を引っ張り、犬の耳を引っ張って、凍死していないのを確認するが、半猫は目さえ開けない。よほど寒さがこたえているようだ。その頃の日記には

「今日もくらいうちからでてきてきかいをうごかして雪をとばしていた。まい日しごとにいくのはかんしんだが、むだだ。むだとむだでないとがあるとすればむだのほうだ。ときにひがさして外に出てみると、それはまったくのうそですぐにふぶきになって、あわててねる。犬のさんぽにもたまについていくが、たださむいだけでおもしろくない。犬はなぜさんぽするのだろう。人間をひっぱってすすむくらいいつもよろこんでいる。ぜんぶ雪にうまってなにも見えないのによろこんであるく。わたしはどうもさむいのはだめだ。さむければさむいほどまえむきにならないといけないから日記係にはむかない。ほんぶんではないようだ」

「ねむっているとよい。だれもかれもがはだかであたまにばななをかついでいるふうけいがうかぶ。わたしはやしの木の下でながれてきたやしのみをまくらにしてなみのおとをききながら日記をかいている」

 日々は小さな予想外に満ちている。大晦日の日に車庫のシャッターが凍って動かなくなったこと、雪の下にあった古タイヤを除雪機の刃が噛んで取れなくなったこと、その防火水槽の除雪当番が三回も回ってきたこと、台所の水道が凍って何日も断水したこと、除雪機の刃についていた雪が凍って除雪機が動かなくなったこと・・・。小さな予想外を繰り返しても予定調和には影響しない。

雪下ろしに屋根に上った私を、雪の落ちる音に驚いて犬小屋から出てきた犬が見つけて吠え続け、あまりうるさいので雪玉を投げつけても当たるわけはなく、バランスを崩して落ちそうになった。こんな土地で生まれ、そして死んでいくのは予定調和だが、この予定調和を私はどれだけ理解していただろう。少なくとも二十代三十代の私に今の私は想像できなかった。

 ずっと続くと思っていたことが突然終わり、すぐに終わると思っていたことがずっと続く。犬の小屋の半猫は雪が家の周りからなくなった頃、日記を残していなくなった。毛皮は残さなかったから脱皮したわけではなさそうだ。

半猫の言っていたことは大抵は辻褄が合わない。口から出まかせの出鱈目だったのか、半分本当で、半分嘘なのか。一週間経っても犬小屋に戻らなかったので、段ボールの犬の寝床を片付けると、犬はいつの間にか小屋の中に入っていた。凝った物語ならこの犬が黒幕ということになるのだろうが、よくよく観察しても犬は犬だった。犬臭く、耳を引っ張れば嫌がるし、時々私に吠えた。日記帳は半猫が住んだ確かな証拠だし、また戻ってくる時のためにそのまましておいた。雨が吹き込むような天気があれば濡れてしまうので、ビニール袋を被せたら、犬が嗅いでいた。食べ物でないと分かるとあとは無関心となった。

日記の最後にはこう書いていた。「このままだと私がぺらぺらのかわだけになってふぶきの日にとばされるのでたびに出ます。にっきがかりはにんげんがよわねをはいたりあきらめたときにやってきて、かんさつします。あなたのよわねやためいきをききたかったのですが、私がねてばかりいたせいかかないませんでした。どうかだいべんがかりにせいをだしてください。そしてきょうくんのないじんせいをあゆんでください」

半猫に船や飛行機に乗る術があるかどうか分からないが、ハワイとかタヒチとかの南国に行って、半裸で踊る人たちを見ながら日記をつける半猫を思い浮かべる。私の日記係よりどんなにましだろう。

私は目玉焼きを一度も半猫にやらなかったことをふと思い出した。今度来た時には忘れずにやろうと思ったが、多分半猫は二度と来ないし、来たとしても目玉焼きのことはお互い忘れているだろう。

あるいは、いっそもっとぺらぺらの皮になってしまえば、まるで一条のタオルのようでさえあるので、旅客の鉢巻きに扮して自在に旅ができるのかもしれない。タンポポが綿毛となって旅をするように、ヌスビトハギの種が人について新天地に移動するように。そして希望の地でもっともていたらくな人間の日記係になれば、たちまち立派な半猫に戻るのだろう。そんな仕組みなのかもしれない。南国の島には海辺に小屋を建て、流れついた魚や椰子の実だけを食べて生活する人がいると聞く。きっとそういう人の日記係になって、椰子の木と椰子の木を繋いだハンモックで寝て過ごしているだろうか。来世はそのいずれかになれますよう、祈るしかできない。