オッド・アイ Tの猫とその一味 第七回「冬は休む」

第六回最後の部分と重複、直し。

「ミッキーみたいに一ヵ所しか出ないといいのに」とつぶやいた。
これからこの山小屋が火事になってD6さんと征平さんが登場してと、私は予言者のように巫女に教えようかと思ったが、小屋に居るのは私一人、慌てて外に出ると、巫女とその後ろに猪一匹、そしてD6さんと征平さんらしき人も草原の登山道をギルダ原の方に向かって歩いていくのが見えた。ギルダ原の向こう、天狗の鼻のような北股岳を越えれば梅花皮小屋。そこでまた三人と一匹で一芝居うって大儲けする段取りかと、旅芝居一行を見送った。もたもたしてついて歩く猪を座長のYが肩に担ぐと、後ろの二人はそれぞれピッケルを高く掲げた。夏山にピッケルは必要ないが、岳人の魂、刀のつもりで鬨の声を上げたのかもしれない。あるいは、梅花皮から石転び雪渓を下るならピッケルも必要だ。しかし、アイゼンの履けない猪はどうするか。体形からして一度滑れば本石転び沢の出会までは止まらないだろう。Yが担ぐとしてもバランスを崩せば一個体は二個体となって一気に出会いまで転がるだろう。そんな心配をして見ていると、三個体は一個の点となって草原の道に小さくなったが、やがて北股の登りとなって、四個体の点となった。さすがに登りではYも猪は担げない。そして生意気ではあっても猪はかわいそうだ、と思う。いずれ占いで稼げなくなれば食料と食い扶持を減らすのと一石二鳥で干物になる運命だと推測したからだ。

その朝、目覚めた私は確認することを箇条書きした。

〇収蔵庫に尊徳の頭はいくつあるか。

〇Yは毎日会社にちゃんと行っているか。

〇猫のハンコの有無、田町さんの額と玄関。

〇事務室のスケジュール表を確認。

〇征平さんの墓参りをすること。

はっきりしていることは征平さんは9年前に死んだことだ。だから彼が登場する一座の顛末も夢か夢想と断じて良いのだが、その他のことは曖昧だ。但し、一座の征平さんが征平さん似の征平さんであれば話は別だ。浅黒い顔色で彫りの深い顔立ち。特徴がある人には似ている人が多くいる。テレビで出てくるインドやパキスタン、アフガニスタンの人々はすべて征平似だ。

 その朝出勤した私は開館準備を始める前に今日が何日か確かめてから予定表を眺めた。8月は行事が少ない。田町さんの担当する古文書解読会が二回だけ。学芸員の実習生が二週間研修。あと消防訓練くらいだと思ってみたが、10日に欄に書かれている「猫股木宮尾病院」の意味だけは分からなかった。病院関係の団体かと思いながら開館のために館内を回る。玄関のスタンプは無かった。確かこの場所にと思ったが、何も無い。夢想か夢だったようだ。館内を一巡りして事務室に戻ると田町さんが新聞紙に包んだ花を持って立っていた。一瞥する限り額にスタンプの跡は無い。挨拶を交わしてから猫股木宮尾病院について聞いてみる。
「それは館長に言われて書いたので私は分かりません」
「あっそう」

「動物病院ですかと聞いたら、いや膝の病院だとおっしゃってましたが」

「あっそう」

猫股木?宮尾?が来るのか行くのか、団体なのか個人なのかさっぱり思い出せない。
「その花は何」

「サンダーソニアです」
「自分の家で作ったの」
「いえ、貰い物です。南アフリカでサンダーソンさんが見つけた花だそうです。花言葉は望郷または祈り」

「あっそう、ところで蠅叩きはどこだろう」
「館長の机の脇に下がっています。昨日事務所に入ってきた蠅を追いかけて蠅叩きを持ったまま外に出たきり戻らないので、私、館長より早く戻ってきた蠅を広告を丸めて潰しましたわ。広告を丸めて蠅叩きの代用になることが分かりました。蠅叩きは後で見つけてそこに戻しました」

「あっそう」

猫股木、サンダーソン、祈り、広告・・・聞けばますます混乱するようなので、せめて尊徳の頭の数を確認しようと収蔵庫に入ることにした。

尊徳の頭は一つだけだった。医者が持ってきたものは無い。しかし、持ってきたこと自体が夢なのか、その後猪に盗られたのが本当なのかは分からない。ただ、蠅叩きが机に置いてある。私は尊徳の頭を巫女に倣って叩いてみた。
「あらくたらさんみゃくさんぼだい、ぽくぽく」

「あらくたらさんみゃくさんぼだい、ぽくぽく」

大学の教室で私は小説を書いている。自販機でコーヒーを買い、空き教室を見つけて原稿用紙に向かう時は安らぎを感じたが、今が本当に大学時代なら他にやるべきことは沢山のある気がして落ち着かない。入口に羽をたたんだトンボの死骸はオニヤンマかと思ったが、二つに折れたプラタナスの葉かも知れない。何かをズリズリと引きずるような音が聞こえる。廊下に出てみると案の定例の猪が例によって尊徳の頭を引きずっている。どういう由来の尊徳の頭か分からないが、見なかったことにもできないので後ろをついていくと階段に差し掛かる。一瞬ためらったから階段は苦手なのだろう。しかし、前足、後ろ足と慎重に降り始め、紐で引っ張られた尊徳もゴドン、ゴドンと大きい音を出して一段ずつ下る。そのうち割れると私は思ったが、どうせ夢だから構わないと思っていると、転がった尊徳が一段で留まらず二段三段と転がって勢いがつき、猪を引っ張る。猪はバランスを崩し倒れて転がる。基本丸い二体が転がるのはいつの間にか文学部のスロープだった。転がっている間に紐が猪の首に巻き付き、尊徳は猪の首にぶら下がっている。引きずるのとぶら下げるのとどちらが楽だろう。すると猪は坂道を下り、ぶつかった大通りを右に曲がり、交差点で歩行者用の信号を待っている。引きずっていればあちこち引っかかってこんなにスムーズには歩けないだろうから、やはりぶら下げる方が良かったのかと思っていると、横断歩道を渡った猪はその先の階段を登り始めた。一陽来復の穴八幡神社は良く待ち合わせをした場所だ。
「ここでずっと待っていればいつか春もやってきたのでは」

私はまた分かったような口を利く猪が憎らしくなったので、ぶら下がっている尊徳をもう半周回して肩に乗せた。ずっとこうしていれば肩が凝るだろう。
「約束の意味も忘れたんじゃない」
「もう守れない約束もある。まだ守れそうな約束を果たすために空き教室を探す」
「現在も未来も変わらないよ。変えられるのは過去だけだ」
「そんな知恵をその尊徳につけられたのか」
「いや、これはトレーニングのために引っ張ったりぶら下げたりしているだけだ。こういうことでもしないと肥満になって飯豊の山々を自由に闊歩できないからね」
「もしかして君は一座の座長か」

「いや座長は俺でない」

「ではいんちき巫女か」

 

「いんちきでなんかあるもんか。俺はもう三年飯豊で修行すれば過去を変えられる」
「そうやって希望を持たせて働かせるわけだ」
「御沢から大石ダムまでの完全縦走、年に十二往復、猪だから大概見えるのは草だけだけれど、イチゲやシャジンの花が鼻先を掠めて走るのさ。そうして走る現在もそれから続く未来も確定しているけれど、過去だけは変えられる。つまり考え方次第だからね。そのために、剣ヶ峰を登り、御秘所を這い上がって、本山、大日、梅花皮、門内、地神、頼母木、朳差へと走るのさ」

「小屋泊まりか」
「いや、着の身着のまま木の実ナナさ。猪の特権はシュラフを着ていることだからね、日本海が赤く染まるのを見ながら寝て、満点の星明りでも歩くのさ」

「冬は大変だろう、ひと月もかかるかい」
「冬は休む」
「あっそう」

私はなぜか急に征平さんの墓参りを思い出した。こんな場所で正体不明の猪と与太話をしている場合ではない。ここから関川まで戻るのに急いでも半日は掛かる。花を買い、線香や蝋燭の入った籠を取りに家にも戻らないとならないから半日以上は掛かる。猪はどうしよう。生意気だがYが座長の旅芸人の一員だから、ほおってもおけないが、新幹線に乗れるのだろうか。狸みたいに化けられれば良いのだが・・・。

 

8月30日は征平さんの命日。夕方五時に集まってお参り。冥福を祈って以前の文章を載せる。

 

「雲の湧く稜線に私の桃源郷がある」「いわふね新聞」2018/7/29号掲載

四十半ばで行き詰って、ふと昔を思い出して山登りを始めた。東京に居た頃友人に誘われるまま山梨や長野の山に年何回か登っていた。駅から登山口まで一日掛けて歩くようなストイックな登山で、水場を求めては幕営する気儘な山行でもあった。

 再開して数年は単独行、ひと月に十日山のこともあった。飯豊に登ったのは二年目、朳差の頂上で見たタカネナデシコを自然に生えた花だとは思えず、誰かが植えた園芸種だと思うほど花には疎かった。その後気の置けない仲間と登るようになったが、独りは修行、徒党を組めば娯楽だと思っている。いずれ日常を背負って喘ぎながら登ることに変わりないが。

 飯豊連峰は新潟、山形、福島の三県に跨って南北に連なる山脈で、主峰は飯豊山2,105m、大日岳を最高峰として2千mを越える山々が連なっている。日本海に近いため冬は豪雪となり、真夏でもあちこちに雪田雪渓がある。稜線にはテント場を隣接する八つの避難小屋があるが、基本寝具持参の自炊である。深田久弥の「日本百名山」にも名を連ね、花の多い山としても有名であるので、山岳誌の人気アンケートでは例年上位となる。四つの登山口がある飯豊温泉の駐車場は夏の週末には全国からの車で溢れるが、大概は行き交う人も稀な静かな山域である。

そんな山に近くの我々が登らないとしたら、浦安に住みながら一度もディズニーランドに行ったことがないようなものかもしれない。おまけに山は無料である。

苦しい息抜きが登山だが、特に飯豊はどこから登っても、登る人の覚悟を問うようないきなりの急坂で始まる。重いザックを担いでの登りは、「山登りは日常を忘れさせてくれる」と云いながら終始世間話に余念がない人さえも黙らせる。しかし、苦労して辿り着く稜線はさながら桃源郷のように登山者を迎えてくれる。延々と続く雄大な緑の稜線、風の吹き渡る草原に色とりどりの花々が咲き乱れる。

 

 雲の湧く稜線に私の桃源郷がある

どんな感傷も許される場所

歩けなかった道も

再びは会えない人も

花のように

風のように

やさしい

どんな思いも

残雪に光る雲のように

眩しいだけ

 

永劫と刹那を同時に感じることがある。岩稜に人が連なる山ではないことだ。

御沢から入って大石に下る縦走をした際、送ってくれたのも迎えてくれたのも横山征平さんだった。登れるうちに登った方が良いと、送迎を買って出てくれたのだ。最終五日目、西俣のへつりの先で冷たい飲み物を沢山持った彼が待っていた。二時間も歩いて迎えにきてくれたのだ。

それから六年後の2012年の同じ8月、同じ西俣で彼は命を落とした。沢山の事を彼から教えてもらったが、登れるうちに登ることだけ忘れないで守っている。

 

佐藤先生の命日は九月二十八日。今月一周忌となる。葬儀の際、弔辞を読ませていただいたので、ここに改めて載せて先生に感謝したい。今強く感じるのは、死んだ者だけに現実が確定することだ。

弔辞

 佐藤貞治先生と初めてお会いしたのは先生がせきかわ歴史とみちの館の第二代館長として来られた時でした。それまで先生は天職とした高校教諭を勤めあげられ、何年か新発田の高校で非常勤をなさった後のことだったと記憶しております。そののち、先生の元で 十三年と三ヶ月働かせていただきました。無欲恬淡、豪放磊落、平たく申し上げれば気さくで楽観的な御性格なども敬愛するところですし、学者として探究心、芸術に対する理解と審美眼なども大変敬服してその年月を過ごしました。先生が館長となられてから色々な事業が始まり現在に至っております。「山城探索会」「古道を歩く」「地学散歩」「巨木探検会」など、山野を跋扈して採集、研究を続けてきた先生だからこそできた事業でした。小学生を集めた化石探しでは毎年あちこちの崖をほじくって廻って丸山大橋の下の荒沢の崖が沢山出たので、何年か連続で掘っているうちに崖崩れが起きまして、化石掘りが原因だと先生も内心は思ったのでしょう、二度とそこには行きませんでした。美術にも造詣の深かった先生は「美術館巡り」を始めましたし、企画展でも地元の数々の新旧作家の展覧会を開催しました。御自分でも集めていらっしゃる長谷部権次呂はじめ長島北彩、鳥居敏文、鬼原素俊、山脇敏雄など枚挙に暇ありませんが、二人で作品を遠方に借りに行く時、先生は大概助手席で眠っていらっしゃいました。借り受け先まで迷い迷いしてやっとそのお宅が見えてきた頃、先生はむくっと目覚めて「安久さん、そこ右だ!」と声を出します。帰途に焼肉食べ放題の店に入ったこともありました。食べ放題と云うのが珍しかったのか先生はどんどん運んで、こんなに食べれるのかなと不安に思っていると最後に山のように残った生肉を指差して「これは安久さんの分だ。安久さんのために取ってきてあげたんだ」とおっしゃる。肉は返せないし、余らすと料金を取られるので必死になって食べた記憶があります。夜遅くまで絵画の展示をやることもありました。最後の仕上げの時になると先生はなにか張りきられて、右が高いとか低いとか意気込んで大声を出すものでしたが、先生水平器をあてますから大丈夫ですとは言えませんでした。友の会の設立とその会報の発行も先生が始めました。今も続いていますが会員数は先生が館長の時が三百数十人と一番多く、先生が散歩がてらに女川を一周しながら勧誘した結果です。学者でありながら気さくで飾らない人柄を慕って、歴史館には沢山の人が集まりました。先生の呼び掛けで阿賀北山岳会が出来、そのお陰で色々な山に登ることができました。先生は村高の山岳部の顧問であったので、さぞかし重い荷を背負って先頭を歩かれたのか思いきや、顧問はほぼ空身で生徒が食糧からなにから全部担ぐから、後ろからついて行けばいいんだというお話でした。ですから杁差の小屋に泊まると「安久さん、俺の水も頼む」と大変簡単なのでした。沢山の山を御一緒させてもらいましたが、山で先生に感心したことは二つしかありません。朝日連峰の以東岳の帰り、先生は麓の店で大きな舞茸を買って白いナイロン袋に入れてもらい車の荷台に入れました。一緒に行った神林の人が先に下りてザックと白い袋、これを自分の登山靴を入れた袋だと間違って持っていこうとした時、先生それまでうつらうつらしていたのにやはりむっくと起きて「それ俺の舞茸!」と車内で叫ばれました。その通りだったのですが、もう暗くなっていたのに良く舞茸の袋だと半睡眠状態でしかも車内から察知したかと思って一同大いに感心しました。また、三月の残雪期に五頭連峰を縦走した折、先ずは稜線に着いて昼食とした時ですが、先生に500のビールを差し上げました。その時風もあって髪の毛も凍るぐらい寒さだったので、私は自分のビールには手をつけられなかったのですが、先生がほぼ一気飲みしている姿にはあっけにとられました。ただただ驚いて、この二本のやたら無暗に立派な眉毛に秘密でもあるのだろうかとしげしげと眺めた次第です。 先生のエピソードは数えきれませんので、これで終わりにしますが、館長と並行して村の教育委員長という重責も果たされたことも忘れません。そして、二つの責務の傍ら、広報せきかわに連載なさった「地学散歩」そして「関川郷の人々」は今でも愛読者の多い著作物です。なにか分からないことがあると「関川郷の人々」を私は開きますし「地学散歩」は先週の村上新聞で平田昭氏も紹介していましたが、大変な名著で、今でも歴史館にそれを求めて来る人がいまして、既に絶版なっていると伝えますと、是非コピーしてくれということになって、そのコピーの作業が大変だと先生に報告させていただきます。公私とも先生と過ごさせていただいた時が私には一番幸せな時代でした。だから入所した先に顔を拝見しにもっと伺えば良かったと思うし、病院にも忍者のような恰好で偲びこんでもお会いすれば良かったと、懺悔の気持ちを込めて長くお話させていただきました。晩年は病との闘いでしたが、今安らかになられていることがせめてもの救いです。先生、本当にありがとうございました。

 先頭を登っている征平さんは稜線に一番に出ると「あいや、や、や、や、や、や」と大声を上げたものだった。「や」の数が多ければ多いほど絶景なのだ。「いやあ、恥ずかしいほどよく見える」も決まり文句も時々思い出す。征平さんは享年七十五。佐藤先生は八十五だろうか。