御前坂の九十九折りの道を下って御秘所に差し掛かった。猪には手が無いので岩場の下りは最も不向きだ。手のように見えて前足というように、手ではないから物を握ることはできない。だから鎖を頼らず下りるしかない。足の裏だって滑り止めになる肉球の部分は少なくて、大部分爪なので、と思っていたら案の定滑って転がり落ちた。ただ転がり落ちても藪の中だ。密藪の上に落ちてけがもないようで、そのまま藪を掻き分けて姥権現の所まで歩き、そこで振り返って我々を待っている。次に心もとないのが郵便夫のどちらかだ。もともと猫なのにバランスが悪い。何かを失わなければ何かになれないというわけだ。それでも鎖を握れば大丈夫と見ていたら、その鎖を掴もうと身を低くした時にバランスを崩し、「ニャー」と言いながらこれもやっぱり10m下の藪に転がり落ちた。けれどもやはり藪に落ちた方がよっぽど速くて、猪の横まで歩いていって振り向いた。道なんてものは人間が人間のために作ったものだと実感する。ときどき道の真ん中に狸も猿も熊も糞をするが、きっと嫌がらせに違いない。そしてもう一人郵便夫がやはり不安げに鎖を掴み、体を九の字に曲げたへっぴり腰で下りていく時、姥権現の脇で猪と並んで待っていた郵便夫がやおら横を向いて放尿し始めた。そこには姥権現があるはずで、猫なんてものは一切宗教的精神がないから、石も神様も区別がつかないのだ。姥権現の頭、歪な球形の石は恰好の標的となったようだ。と、郵便夫の体が一瞬にして石となるのを私は見た。それは近くで見ると、服を着た小便小僧である。大変珍しいと思ったので、姥権現も入れて写真を何枚か撮り、石化しなかった鞄を肩から外そうとすると、ガラガラっと石像が崩れて姥権現を埋めた。そのままにもしておけないと、石をどけていくと、ぴょんと白黒の鼻黒猫が一匹飛び出してきて、Y似で猪使いの巫女と猪と郵便夫を追っていった。私は濡れた姥権現の脇に郵便夫の頭だけ置き、拾い上げた鞄を肩から斜に掛けて歩きながら、感じたままを歌にした。
「哀れ哀れな鼻黒猫よ いっそ浮世に愛想をつかせ 石となるなら未練もないが はてまた猫に逆戻り 所詮来世も罪ならば 姥権現の仕業も罪だ 罪だ罰だと花は咲き 飯豊の夏は業の果て」