オッド・アイ Tの猫とその一味 第32話「勧誘と清掃」

 店主は肉球を「にっきゅう」と発音する。日給を「にちきゅう」と言わず「にっきゅう」と言い、白球を「はくきゅう」と言わずに「はっきゅう」と言うからには「にっきゅう」いうのが発音しやすい変化(音便)だが、熱気球を「ねっききゅう」と言わずに「ねつききゅう」と読むのと同様「にくきゅう」と発音するのが正しいらしい。しかしこの際は好都合だ。

「にっきゅう、というのは肉の球、肉の塊です。良く煮込んでいるのでそれは形を成していないかもしれませんが」

私は肉球ラーメンを見ながらYに小声で説明した。そのラーメンは何の変哲もないしょう油ラーメンに見えた。

 すると店主は俎の上に紙を載せてマジックでなにやら書き始めた。そして

「これ、どうぞ、肉球ラーメンのサービスです」

それにはこう書いていた。

「私のような凡人は自分のために何かしようとしても大したことはできません。なにかしようと思っても思わなくても、人のためにすることが店を続ける秘訣也」

私はYに代わってそれを受け取り、そして黙読した。そうは見えないが人のためにラーメン屋をしているようだ。

「これはこのラーメンだけのサービスですか」

「そうです。忙しくない時にサービスします。ラーメンよりこれの方がうまい!と言う方がいらっしゃるので困ります」
 私はコップの水を一口飲んだ。すると店主はまたこまねずみのように動き出した。私の冷やし中華を忘れていたようだ。しかしそのお陰で私は肉球ラーメンを仔細に観察できた。箸とレンゲによって解剖される肉球ラーメンを逐一見ることができたわけだが、一心に食べ続ける様子から推測できるのは、よほど腹が減っていたのか、よほどうまいかのいずれかだ。そして迅速に食べ終え、それまで一口も飲まなかったコップの水を一気に飲み干すと

「買い物してくる!」とラーメンの感想も言わずに食料品売り場の方に向かう。なにか様子が変だが、今更仕方ない。そう思って後ろ姿を見ていると薬売り場の前に置かれた空気の入ったビニールの象を通りすがりに殴りつけた。大変活力が満ちている。

 そしてようやく出てきた冷やし中華が食べ終わらないうちに戻ってきたYは、両手にビニール袋を下げたまま

「またおなか減りました。すいません、もう一杯にっきゅうラーメンをください!」

「はいはいはいはい、もう一杯肉球ラーメンね、こりゃあ忙しい、猫の手も借りたいくらい忙しい」
下に置いた袋の中に魚の切り身が入っているのが見えた。あっという間に買い物を済ませて戻ってきたから、最初から買うものが決まっていたのだ。だから二袋とも魚だろう。全部は冷蔵庫には入らないので、焼き魚パーティでもしなければ食いきれないだろう。

 二杯目もYは夢中で食べ始め、店主はまた俎の上でカレンダーの裏になにやら書いて私に渡した。

「猫の手も借りたくなるよ肉球ラーメン あなたも一杯しあわせいっぱい」

店主は大変浮かれているようなので、私の依頼を忘れなければ良いがと思いながら店を出た。

 肉球ラーメンの効果が一時的なものなのか、ある程度持続するのかは今後の経過を見なければ分からない。もしかするとYの活力はどんどんと増していって猪捕りのYになるのかもしれない。そしてそれこそが肉球ラーメンの目的だとすれば鼻黒一味と猪族は敵対しているのかもしれない。

 先般初めて針ノ木岳に登った。後ろ立山の一角、脈々と続く北アルプスの内、針ノ木峠から北を後ろ立山と呼ぶから、針ノ木岳はその南端となる。今まで登ったこともない山なのに、名の通り尖がった山容なので、黒部湖を隔てた立山からも、南方、著名な山からも良く識別できるので「あれが針ノ木」と幾度となく指さしてきた。三大雪渓の一つ針ノ木雪渓を登った初日にコマクサに覆われた蓮華岳に上がり、2日目に快晴の針ノ木に登った、その帰りのことである。雪渓を下り終えてアイゼンをしまい、篭川を高巻きした道を歩いている時に「猫鼻の湯」という看板を見つけた。看板だけ木に括り付けてあって、どこにあるとも書いていないものだから、大沢小屋で休憩した時に聞いてみた。

「この小屋の裏から通じる道があります。大変結構な湯ですので、極楽の湯とも呼ばれています。一回入れば今後の幸いさえ保証されます」

私は温泉好きではないので行く気もなかったが、Yと綿野舞さんは立ち上がってザックを担いだ。ザックまで持っていくことはないだろう、タオル一枚でと声を掛けようとすると、そのザックに入っているのは豚であった。一頭の豚が前脚だけザックの上から出して担がれている。ザックを担ぎ直そうとすると「ブカッ」と音がする。生きている豚だ。Yのザックからも豚の音がする。

「僕は自業自得ですが、彼らに豚を担ぐような罪はないでしょう」

「それは存じております。ですから貴方は鼻黒の湯には入れません。あの豚、実際は猪ですが、あの猪が温泉の入場券ですから。ですから貴方にはここでコーヒーを飲み、爺ヶ岳を眺めながら何時間でも待っていただくことになりますわ。私はバッタ捕りに出なければなりませんので、その間留守番もしてくださいね」

「バッタ捕りとはなんですか」

「勧誘とか清掃とかですわ」

私は百瀬慎太郎がそうしたように窓に向こう空高く聳える爺ヶ岳を見ながらコーヒーを飲んだ。そして、うら若き女性がひとり山小屋で管理人をしていることの不可思議を思っていた。小屋の裏で包丁を研ぐ山姥が管理人の正体で、三人をバラバラにしてから一人ずつ襲う筋書き。私は慌てて二人が出ていった裏口を開けたが、このままあとを追えば、留守番の役目が果たせないと思い躊躇った。そして恐る恐る小屋の裏手に歩いていくと、やはり私に留守を託したあの女性が小川にしゃがみ、背中をこちらに向けてなにかしている。いくら女性でも正体が山姥となれば空身では適わない。私はザックに括りつけたピッケルを取りに戻ろうとした。するとその時

「留守番も適わないなら、ここでこうやって、凍ったイワナやヤマメが流れてくるのを捕まえてください。針ノ木の雪渓で氷漬けになったイワナやヤマメが半解凍状態で今の時期には流れてきます。それを捕まえて刺身や焼き魚にして宿泊者に提供するのが私の仕事です」

「バッタ取りは?」

「それは勧誘と清掃です」

私は二人が猫鼻の露天風呂から戻ってくる間、魚取りをした。1mもない小さな川の上流からぷかぷかと流れてくるイワナやヤマメを網ですくって捕るのは容易である。半冷凍なので逃げる様子もない魚は笹舟と同様である。結局私はこの腕を見込まれて、その後一週間この山小屋に逗留した。私の捕まえた半冷凍のイワナとヤマメを管理人は午前と午後アイスボックスに入れて麓の旅館に卸しにいく。それが小屋を維持するための大きな収入源となるらしい。一人でやっていると麓に卸しに行っている間にみすみす魚を逃がしてしまうから、私の助けは甚大であったようだ。Yと綿野舞さんも同様に逗留して毎日二回、午前と午後猫鼻の湯に通っていたが、その費用も無料であった。ただ私の手当てはその宿泊費に当てられたらしく、流れてくる魚も少なくなって繁忙期が終わった時、私は一本の手ぬぐいを持たされただけである。

「山を想えば人恋し 人を想えば山恋し」と紺地に白で染め抜かれた手拭い。

私はこれを早速頭に巻いて扇沢への道を下ったが、一週間風呂に浸かってイワナとヤマメばかりを食べていた二人は腑抜けのようになって、ふらふらとやっと後ろについてくる塩梅であった。