オッド・アイ Tの猫とその一味 第十四話「不十分で十分の巻」

廃校となって久しい女川小学校にまだ二宮尊徳像はあるのか、私は敢えて見に行くことにした。健全な状態で今も存在するなら、預かっている首は戻す必要はないし、首が無いのなら、私が左官を真似て本来の姿にしなければならない。というのも、一日に何度も収蔵庫に入り、気付くと尊徳の頭を撫でているからである。あるべき場所に戻りたいという、尊徳の頭の願望がそうさせるような気がしてならない。それに、頻繁に収蔵庫に行き来する私を訝り始めた田町さんが
「あれを常設する予定ですか」と聞く。
「いや。でもどうしてですか」
「この頃、あれを持って、まるであれを散歩にでも連れて行くように館内を歩いていらっしゃるから、展示する場所をお考えなのかと」
「いえ、そんなつもりはありません。どこに置いても繋がりがなく、唐突です。ところであれとは、尊徳の頭のことですか」
「そうかも知れないし、そうでないかも知れません」
「そうかも知れないし、そうでないかも知れないというのは」
「布に包んで運んでいるので、推測に過ぎないからです」
尊徳が私を誘導して元の場所に行かせようとしているのを私自身が必死に抵抗して館内で留めているのだろうか。何度も言うようだが、尊徳の頭に保存するほどの歴史的価値は無い。それに固執するのは欲しがる連中がいるからで、欲しがる理由が分かれば放擲して構わない。
「割ってしまえばどうですか。そうすれば誰も見に来ないし、持っても来ませんわ」
おや、田町町子、大胆な事を言うと私は思った。尊徳が誰かに狙われていることを知っているかのような発言だ。その真意を確かめようと彼女を見ると、さっとマスクの上から鼻を手で隠し顔を背けた。マスクをしているから手で隠す必要もないのだが、よほど見られたくないので咄嗟にそうしたのだろう。

状況は分からないが、田町町子は鼻黒猫だ。ただ、鼻黒猫が田町町子に化けたのか、田町町子が鼻黒猫に化身させられたのかは分からない。前者だとしたら本物の田町町子はどうしたのか。後者だとしたら鼻黒猫になった気持ちはどんなだろう。
「形として意味のあるものを壊してその意味を奪う権利も勇気も私には到底ありません。多分は私は近日中にあれを女川小学校に戻すでしょう。左官の真似をして胴体に固く接着させるつもりです」
「尊徳の像に首が既に備わっていたらどうしますか」
「理科室の戸棚に入れます。ビーカーとかフラスコとか入っている棚の中にしまっておきます。もし、戸棚も撤去されていたら、美術室に置きます。素描の対象となっていたミロ島のビーナスと並べて置きます」

私がそう言い終わらないうちに鼻黒猫の田町町子は事務室を出ていった。鼻黒猫には長居できない事情があるようだ。
  私は玄関に出て、原付バイクに跨って去る鼻黒猫を見送った。なんにでも化ける鼻黒猫は油断ならないと思いながら。

いずれにせよ、四面楚歌の状況はさらに切迫したものになった。どうでもよい尊徳のためになにやら敵ばかり増えたが、それにしても田町町子が鼻黒猫なら私の留守中に収蔵庫から尊徳を運び出せば良いだけの話だ。そんなことも考えられないのは所詮猫だからだろうか。
 私は席に戻り、なにかをしようと思えばすべて途中で終わるが、所在無いまま生きるのよりはましだろう、と思った。そのためには物理的に片付けられることは機械的に片付けた方が良い。つまり、尊徳は元の所に速やかに戻すことだ。
 そこに用事を足しに外に出ていた多分本物の田町町子が帰ってきた。宮尾宮子の田町町子とどこか違うと言えば寸分違わないが、気の毒にまだ額のスタンプが消えない。
「今そこでバイクに乗った女性に道を聞かれました。北東はどちらかと聞かれたので朳差岳の方を指さしました。私、北東なんて考えたことがなかったので、それで良かったのでしょうか」
「全然違いますが、そちらに向かえばいずれ道は途絶えて山にぶつかり引き返すでしょう。間違った方向を教えた人を恨むかもしれませんし恨まないかもしれません」
「どちらですか」

「さあ、僕なら自分自身の方向音痴を恨みますが」
「私、追いかけて訂正してきますわ」
追いかけて追いつくわけはないと言う暇もなく、持っていた書類を机に抛り投げるように置いて田町町子は出ていった。無駄なことが多過ぎる、無駄だらけなのが人生だが、本質はそこにしかない。

 閉館時間が近づいて、田町町子がまだ戻らないことを思い出し玄関に出て外を見ていると、原付バイクがカーブを曲がって近づいてきた。原付の二人乗りは違反、二人ともヘルメットを被っていないのも違反だ。玄関前にバイクは停まり、田町町子が降りると宮尾宮子はそのまま去っていった。

「良く追いつきましたね」

「追いついたわけでなくて偶然出会ったのですわ」
「ああ、そう」
「朳差岳の方に歩いていったつもりでも朳差岳はすぐ見えなくなります。目標がなくなって、同じように迷っていた彼女がまた私に道を聞いたのですわ」
 それにしても田町町子に化けた宮尾宮子が本物の田町町子に道を聞き、本物の田町町子が偽物の田町町子に道を教える状況はいかにも不自然だ。いずれもかなり不十分でないと成立しない。私はなぜか猫の世界は悠長で良いなと思った。定職もなく、その日暮らしに見えても、自分が化けた相手に出会っても気付かず、平気で道を聞くほど暢気。なんとも悠長でのんびりしている。それで斥候の役目を担っているわけだから。
草まみれの鼻黒猫が言うこともまんざら嘘ではないのかも、と。

火曜からずっと雨。北越で最も陰鬱な時期。雪が降ってしまえば冬が来たのだと諦めもつき腹も決まるのだが、日々寒くなる中で降り続く雨の季節は昔から嫌いだった。

そんな雨の中、面会に行く。ようやく解禁となり一年八ヶ月振りに母に会う。小声で私の名を呼んだのは予め私が来ることを知らされていたからだろう。健康には問題なさそうだったが、その後の会話がちんぷんかんぷんで話を合わせづらい。米櫃から米を一斗も持っていけと車椅子の上で米を箕に掻き入れる仕草をする。私は現在の私でなく、遠く離れた場所で暮らし久しぶりに帰ってきたと思っている。父や妹の事はさすがに忘れてはいないが、いつの彼らなのかを考えているのか分からない。久子さんが柿もぎに来たと言っても首を傾げ、秋元さんの母ちゃんが亡くなったと言っても首を傾げる。日々近しい人との会話の中で記憶は保たれるとしたら、倒れてから記憶の沼の水は減り続け、そしてこの一年八ヶ月で枯渇しかけている。