オッドアイ・Tの猫とその一味 第四回「セニョリータ田町の正体」

「お客様がお待ちです」と言われて事務所に入ると、麦わら帽子を深く被った男が椅子に座っていた。顔は見えないが、夢の中では見慣れた例のTシャツを着ていたので医者だと分かった。「これは先生、どうも」
「急にすみません。患者さんの職場環境を見るのも有効な治療に繋がると思っていますので」戸惑いを隠し切れない私の様子を見て先生はそう言った。そう言いながら膝の上に置いた二宮尊徳の頭を撫で回した。それはたった今収蔵庫の棚に置いてきた物と別な物だろうか。別な物だとしてもなぜ彼はそれをここに持ってきたのか。すると頭部を撫で回していた手を首の空洞に入れて、何かを探っている。そして紙を引っ張り出した。すべての尊徳の首には紙片が入っているのだろうか。これも白紙であれば、喋るのは誰なのか。
「これを持つ者は幸いである」
「どういう意味ですか」
「分かりません」
 多分白紙だろうと思った私はゆっくり手を伸ばして
「見せてもらっていいですか」と言った。すると先生は慌てた様子で紙片を首の穴に押し込んだ。
「御存知のとおり、これは持った人しか見られません」と言いながら頭ごと私に差し出した。
「あなたがこれを集めていると聞いて持ってきました。どうぞコレクションに加えてください」
 一つしかないのにコレクションというのもおかしいと思いながら私は尊徳の頭を受け取った。大体私の物でもないし、ひとつでさえ邪魔だと思っているのに、他所の物なんかを貰うわけがない。断る理由を考えながら
「これはどこにあったものですか」と聞くと
「それは分かりません。分からないのでここに持ってきました。あなたがその専門家だと聞きましたから」
もしかすると尊徳の首を引きずっていた猪か、Yに弱みを握られて手先になっている猪がそんなことを言ったのか。そんなことを思いながら尊徳の顔を見ると、怜悧で若干薄ら笑いを浮かべた表情が収蔵庫にあるものと同じような気がしてくる。すると、たった今収蔵庫に置いてきた尊徳がちゃんとそこにあるか確かめたくなってきた。あれば申し出は断るが、無ければ同一のものかもしれない。私は敢えてゆっくり部屋を出て大急ぎで収蔵庫の二階に駆け上がった。そして確かにあることを確認して戻った時には先生の姿は無く、テーブルの上に尊徳の頭だけが置かれていた。
「もうお帰りになりました。帰り際に私に手を出してとおっしゃって、私が戸惑っていると額に何か押しました。そして帰られました。あの方はどういう方ですか。そして私の額には何を押したのですか」
私は近づいて田町さんの額を見た。猫か犬の肉球のスタンプだ。
「彼は僕がかかっている医者です。額に押したのは肉球の赤いスタンプです。洗えば簡単に落ちるでしょう。なぜそんなことをしたかは分かりません。多分、来館の記念でしょう。スタンプを持ち歩いて行く所行く所に押すのです。理解できない心理ではないです」
「私、今度はすぐ手を出しますわ」
「ぜひそうしてください」
もう近くにはいないとは思いながら私は玄関に出て外を眺めた。そしてふと玄関の柱に今見たのと同じ肉球のハンコを見つけた。それも三つ縦に並んでいた。つまり今日が三度目だ。私に会いに来たのではなくて、たまたま私がここにいることを知って会おうと思ったのだろうか。私は事務所に戻り、尊徳の首の穴に医者が丸めて入れた紙を取り出した。しかし予想に反して白紙ではなく、これにもスタンプが一つだけ押してあった。
「これ、なかなか落ちません」とトイレから戻ってきた田町さんは言う。私は再び彼女に近づき、紙のスタンプと額のスタンプを見比べて見て、同一だと思った。
「落とそうと真剣にやれば落ちるでしょう。たとえ落ちなくても皮膚は常に代謝しているのでだんだん薄くなります。完全に消えるまで前髪で隠せば良いでしょう。災難を偏差値で表すとして、マムシに噛まれるのが偏差値71だとして、あなたの額のスタンプは35です。蚊に刺されたようなものです」
「その紙は私のメモ帳です。あの方が私に紙を一枚くださいと言ったので差し上げたらその中に入れました」「あっそう」私はしわくちゃの紙を捨てようかあるいは彼女に返そうかと迷ったが、そのまま首の中に押し込んだ。するとその瞬間、こんなことが前にもあったような気がした。
「あの人、これを持ってくるの、初めてですか」と聞くと
「はい、初めてお会いしました」
「あっそう」
私は考えを改めて紙を彼女に渡した。
「現在この紙のスタンプと君の額のそれは同色です。でも時間が経つにつれ額の方は薄くなるでしょう。ですから時々この紙と比較して励みにしてください。もしこの紙を失くしたら、玄関の柱にも同じスタンプが押してあります」
「でも私、前髪は垂らしたことがないのですが」
「そのままだと直視に堪えません。つまり笑わずに見られないということです。それでも今私が我慢していられるのは、それをしたのが私の掛かっている医者であるからには、何かしらの責任を感じているからです」
「分かりました。分からなくなるまでそうします」
「鉢巻きでも良いかもしれません」
「それは嫌です」
「あっそう」
その日は一日机の脇にその頭を置いた。閉館して一人になってから二宮尊徳についてスマホで色々と調べ、このままにしてもおけないと思い収蔵庫に運んだ。二つ並べて見ると、全く同じだった。おそらく同時代に同じ業者が作った物だろう。違うのは首の割れ方だけだった。尊徳の像の首が取れたのは私の小学校だけでなく、あちこちであったことで、この業者が作ったものになにか欠点があったのだろうかなどと考えた。二つを識別するために、医者の方にはその首の割れ口にテープを張り、風呂敷に包み、縛ったところに荷札を付けた。
 火曜と金曜は夕方からバドミントン、水曜日の夜はクライミング。ランニングもあるので残って仕事もできないし、それほど熱心でないので勤務時間内で片付けたいが、どうしても遅くなりがちになり、結局一人でやるランニングの時間が取れなくなる。たまにやるランニングはいつもやるランニングよりきついので、たとえば草刈りにかこつけてランニングをせず家に帰る。つまりは走れる時にも走らなくなって、堕落した肉塊となる。
与えられる食事と水で満足し、なにも持たず、求めず、時間さえ惜しいとも思わず生きている。有限だと思うから時間を惜しむが、惜しまなければ時間は無限だ。そして突然終わって、そこから本当の永遠が始まる。達観した犬を横目で見ながら私は草刈り機を肩に掛け草刈りをする。もの憂そうに私を一瞥した犬はまた犬小屋の前で横になった。生き甲斐という概念が無力感を作る。齷齪生きて何を得たかと私は犬に問う。