去年の12月の初めから喉が痛くなり、最初は市販の薬を飲んでいたが全然良くならないので診療所に行くことにした。診療所の前には大きな掲示版があり、発熱や喉の痛みなどある場合は中には入らず、先ず電話してくださいとあった。すると、その後は自分の車で待機ということになり、運転席で待っているところに最初に看護師が来て、次に先生と看護師が来て、最後に薬局の人が来てと、ドライブスルーシステムで大変面倒を掛けてしまったが、つまりこれ感染防止対策である。3日分の薬が出て、それで良くならなかったら木曜日か金曜日また来てくださいと先生に言われた。ドライブスルーはあんまり面倒かけるので気が引けたけれど、夜が特に痛んで良く眠れない状態が依然続いたので、思い切ってまた電話すると、今度は車でなく、別の入口から入って待つように言われた。入口の戸を開けるとそこは一つの狭い部屋に仕切られていて、その急造されたらしい部屋にひとつ置かれた椅子に腰かけてしばらく待っているとドアの向こうで声がし始め、どうも先生と看護師のようなのだが、ガサゴソ音がするばかりで一向出て来なかった。そしてやっと登場したお二人はテレビで良く見る防護服姿で、感染防止が更に一段厳重になったのだとおっしゃる。そしてその時は抗生物質3日分を処方してもらった。その薬の受取はやはり車の中だった。そしてこの薬がだいぶ効いて痛みはようやく緩和した。
大会が無くても走るのが本当のランナーだと綿野舞さんに言うので、12月は最低200キロ走ってやろうと勢い込んだ矢先にこの喉の痛みで出鼻をくじかれた。
年の瀬、29日に叔母の訃報があった。30日に親戚が集まり、翌日の大晦日葬式となった。大寒波が来ている時で荒天の予報だったが、思ったほどは荒れず、滞りなく終わった。叔母は母の姉で、山ひとつしか隔てていないので良く行き来していた。施設に入っている母には知らせないことにした。
年が明けて5日の強風で二階廊下の窓ガラスが一枚割れ、廊下に置いていた登山道具等を入れた棚二つが倒れ、吹き込んだ吹雪で水浸しとなってしまった。割れたガラスは以前ひびが入って、透明テープで補強しておいたものだった。気づいたのが夜のバドミントンを終えて帰ってきてからだったから、とりあえずベニヤ板他で吹雪が吹き込むのを防ぐ算段をし、散乱し濡れた道具を片づけ廊下を拭き終わると12時を回っていた。
4日は月曜に当たって休館日、5日に出でいくと歴史館の玄関は今まで見たことの無いほど雪で埋まっていた。それからは毎日玄関、そして駐車場の除雪から仕事が始まる。それに家の周りの除雪、加えて屋根の雪下ろしと忙殺される。休館日の12日はしばらくぶりで雪の降らない日となり、一日家の雪下ろし、水曜日も仕事を休んで雪下ろし。雪下ろしには下ろした雪の片付けが付随するので手間がかかる。14日は歴史館駐車場の除雪半日、昨日15日金曜日、何週間振りで日差しの降り注ぐ晴天となり、雪がだいぶ消えて一段落した。
2日間で母家、作業所、車庫、納屋と下ろして、車が出入りできるように除雪もした。11日の朝6時頃、集落の防火水槽の当番除雪をしていると、通りかかった新聞配達の近さんがこんな雪は三八豪雪以来のことだと言った。S家の雪子さんはその年に生まれたので雪子と名付けたのだとも言っていた。新聞に書いてないことまで知っていると感心した。