私らは手がこんななんで乾杯できないのが残念です。バケツから頭を出して猪は言った。
「うまいです。うまいです。乾杯できなくてもうまいです。でも昔はもっとうまかった気がします。きっともっとうまかったです」
「賞味期限が切れているからかもしれません」
「うまかった昔は私らが半人前でも人間だった時です。勉強して働いて遊んでこれを飲むとうまかったです。山登りをしてこれを飲むとうまかったです。人間は山登りがあるから偉いです。山登りは罪と罰の認識です。私らも芋を探して山を登って降りますが、それは山登りではありません。単なる食料探しです。これは所詮そんな人間の飲み物ですね」
「人間に生まれればそれだけで幸せです。どんな人間でも代償を払うことができますから。私ら猪はどんなに頑張ってもそれはできません。だから毎日なにかを探すだけです」
「猪なのに随分考えてますね」
「猪も考えなければ馬鹿猪になります」
猪に限らず考えなければ馬鹿になる。考え過ぎても馬鹿になるが、馬鹿になるほど考える人間も猪も半猫もいない。だから我々は話が通じても通じなくても消費期限の過ぎたビールを飲んだ。それで足りずに消費期限切れの日本酒さえ飲んで、納得するまで全員が飲んだ。泥酔しててんでに寝たと思っていたが、そうでもないのが混じっていたと気づいたのは、翌朝私が水場に顔を洗いに行き、ついでにラジオ体操第一を伴奏無しでして小屋に戻った時である。二階を見に行くと既に起きて逆立ち腕立てをしているY似で猪使いの巫女だけであった。どうもマダムと三国小屋の管理人がいない。
「ひめさゆりの球根は今どれぐらいで取引されてますか」
「ひめさゆりはひとつ100万はしますね。もうこの飯豊でしか咲かなくなって、コロニャの特効薬として注目されています。外国では1,000万円、金より高いそうです」
「人間バームは」
「人間バームというのは知りませんが、それも持って逃げたとすれば、それ位の価値があるのかもしれない」
「石転びから下りたろうか、北股を越えて梶川か足ノ松か、それともオウインの尾根か」
「彼らは軽装でした。ピッケルも多分アイゼンも持っていなかったので、石転びからは下りないでしょう。オウインは道も刈っていないし橋も架けていないので、そちらにも行かない。だから本山方向に戻るか北股を越えてその先から下りるかは双眼鏡師に見てもらいましょう」
半猫双眼鏡師は既に屋根に上って、二人の行方を探していた。なぜ一緒行動しなかったかは分らない。持ち逃げした二人、マダムと三国小屋の管理人が、半猫双眼鏡師が同行することを断ったのだとすれば、行方を探したりはしないだろうから、出し抜かれたのかもしれない。大して役に立たなかったので見限られたのだろう。
「あっちに人影はありません。ただ北股を既に越えたとすれば見えません。こっちにも人影は見えません。ただ梅花皮岳を越えたとすればその先は見えません。つまり行先は今のところ不明です」
Y似で猪使いの巫女も屋根に登って、半猫双眼鏡師から双眼鏡を奪い取った。半猫はその反動で屋根から滑り落ちたが、半分猫なので難なく着地して、奪い取られた双眼鏡を覗くY似で猪使いの巫女を見上げた。
「反対です、反対です、覗く方が反対です。その反対から覗いて見てください」
「私は巫女だからこんな道具は必要ないのよ」そう言って双眼鏡を抛り投げた。幸いミネザクラの枝に当たり、ハクサンボウフウとシナノキンバイと咲く斜面の草むらに落ちたので壊れるような音はしなかった。その双眼鏡を探しに半猫双眼鏡師が石転び側の斜面に下りた時に、その下の方から助けを呼ぶ声が聞こえて
「私の双眼鏡占いが当たったわ」とY似で猪使いの巫女は言った。
雪渓の割れ目に落ちたマダムと三国小屋の管理人を救うためにSさんはピッケルを堅い雪に打ち込み、ロープをそれに結んだ。そして各自がアイゼンを履いてロープを引いた。猪の足に合うアイゼンは無いので、猪は小屋の脇から成り行きを見ていた。乾杯もできない、アイゼンも履けない猪に私は少し同情しながらロープを引いた。
二人が割れ目の途中で引っかかったのは、持って逃げたひめさゆりの袋と人間バームの袋のおかげだった。二種の大きな袋が先に落ち、それが割れ目の途中で引っ掛かり、続いて落ちてきた二人を止めたのである。
その命の恩人とも云えるひめさゆりの袋と人間バームの袋をマダムと三国の小屋の管理人は背負わされて梅花皮小屋を出発した。Sさんは我々一行が北股の頂上の着いても、小屋の横で我々を見送っていた。手を振ると手を振り返した。北股の頂上で小休止した後、もう一度みんなでSさんに手を振ってから北股の頂上を後にした。