オッド・アイ Tの猫とその一味 第10話「宮尾宮子」

それよりも尊徳の頭を封じ込める方が先決なのだ。エアキャップで包んでから段ボールに入れ、それをできる限りガムテープでぐるぐる巻きにして、そこに

「ドライブ ドロップ チャンスでスマッシュ 流れる星の速さで打つから 願いを掛ける時間はないのよ ボンジュール セニョール セニョリータ 出たとこ勝負で打ちまくれ」

とマジックでこう書いて封印とした。これはバドミントンの歌、練習前にひとり口ずさんで気分を出している。

事務所では例によってWK氏が捲し立てている。小人が小言を言う風景は平和の証。口を挟むと助長するので黙って聞くしかないことを田町さんは知っている。この夏中、荒れ地を耕し花壇を作る仕事を夢中でやっていて、その帰りに寄っていく。誰に頼まれたことでもなく、誰に評価されることでもないことを炎天下に、あるいは雨の中で黙々とやれるのは、何か多いか足りないかの証拠であろう。自己完結している様は二十歳の頃の私だ。

駄弁に付き合うのは時間の無駄なので、また二階に戻る。尊徳の頭には近づかないようにして未整理の箱を開けてみることにした。一式預かって内容も確認していないものがある。その目録を作るのも私の仕事だ。古臭い、埃だらけの段ボールを開くと古い教科書がぎっしり詰まっていた。全国に流通したものだから郷土史的な価値は無いが、捨てるわけにもいかないので、タイトルだけメモしていく。ひと箱を調べ終わると、なぜか尊徳の箱が気になり始める。確かに入れたか、確かめたくなる。持ってみて、重さがあるから空ではないと分かるのに、開けて確かめたいと思う。「高原バドミントンの歌」を書いたガムテープを剝がし始めた時、階下で呼ぶ声がした。

「また尊徳の頭をあの先生が持ってきたのでは」と思ったが、そうならそうで構わない。なにも聞かずに受け取れば、またスタンプを押して帰るだろう。

しかし、事務所で待っていたのは見知らぬ若い女性だった。私に気付くと椅子から立ち上がり

「お忙しいのにお時間取らせてすみません。私先般お電話差し上げた高原バドミントンクラブの吉野と申します。牛丼の吉野家と同じ吉野と書きます」

そう言って名刺を出した。

「ああ、はい」

どんな電話だったか思い出せず名刺を見ると「日本全国尊徳クラブ渉外部主任宮尾宮子」と書いてある。やはり、医者か襟巻組の手先だ。椅子の横に置いた大きな紙袋は手土産でなく、尊徳の頭が入っているのだろう。多分それは偽物で、収蔵庫の本物と交換する企みだろう。それにしても名刺の肩書も名前も本人が言うのと違うのはなぜか。
「本当に館長さんだったんですね」

「ええ、館長といっても収蔵庫を整理するくらいしかできませんが」

本当に、とはどういう意味だろう。
「しがない町のしがない館長というわけですか」
「町でなく村ですが」
「ところで今日参ったのは実は貴方様がお書きの小説のことでお願いがありまして、猫を三匹入れてぐるぐる回すくだりなんですが、あの部分を訂正もらえないかというお願いなんです」
「どうしてですか。あれは私の考えたことでなくて主治医の調薬法です。事実でなければ変えても良いし削除しても構いませんが」

「事実かどうかに関係なく訂正をお願いしたいのですが」

「訂正というのは正しく直すという意味なので、事実であれば訂正はできません。でも三匹ぐるぐる回しを書くことでなにか支障があるのなら削除しますが」
「支障はないのですが、実は特許の取ってない特許なんです、あれ」
「特許の取ってない特許というと、東京特許許可局みたいな早口言葉ですか」

「いえ違います」

「一家相伝ですか」
「いえ、それも違います」
「でもあれ、ブログに載せてしまったからな。一旦載せたら訂正しても訂正できないかも」

「大丈夫です。何人も読んでないようなので」
「あっそう」
私は改めて名刺を見て、そして首を傾げた。すると
「あっすみません。その名刺、間違えました」と慌てた様子で半腰に立ち上がって言う。そして私の手からすっと名刺を取って

「こっちが本物です」

そこには「猫股木薬局外渉部長宮尾宮子」と書いてあった。

「部長さんですか」
「ええ、しがない会社のしがない部長です」
「貴方は最初高原バドミントンクラブの吉野と名乗りませんでした。吉野家の吉野だと御自分でおっしゃったと思いますが」
「ああ、そうでしたかしら。でも名前は記号だから、そう言うこともありますわ」

「それでは宮尾さん、話は戻しますが、三匹回し、支障はないけれど削除してほしいと、そういうことですか」
 私は仕切り直すような気持ちでこう言って改めて彼女の顔を見たが、なにかしらの違和感があるのは鼻が黒豆のように黒いからだろう。こんな鼻黒の猫、確かTの猫の中にいたな、と思って
「三匹回しは削除しても良いですが、では他に特効薬の作り方はありますか」

「金目銀目なら一匹でも良いです」
「それをやはりぐるぐる回しますか」
「そうです。自分の目が回らないように注意して回します」

「どれくらい回しますか。熱心に回せば金目銀目はバターのようになって溶けますか」

「適当に回せば金目銀目が小さな玉を吐き出します。それが薬です。金目銀目はこの玉が喉につかえていたので、いっそ元気になって袋から飛び出ます。でもこれも特許の取ってない特許です」
「分かりました。特許の取っていない特許は書かないことにします」
私が黒い鼻を注視したことで、彼女は何かを感じ、いたたまれなくなったように立ち上がった。

「ではよろしくお願いします。それから私のあとにはついて来ないでください。私は私のペースで歩きたいので」そう言って事務所を出ていった。私は彼女のペースに干渉しないように少し遅れて玄関に出て外を見た。すると彼女が原付バイクに跨り発進するところだった。多分猫だと車の免許は取れず、相当優秀でも原付くらいなのかもしれない。ヘルメットを被っていないから見つかれば捕まるだろう。紙袋を持って田町さんも玄関に出てきたが、その時にはバイクは角を曲がっていた。

「もらっておきましょう。土産だと言い忘れただけです」

事務所に戻って袋の中を見ると、中には箱が入っていて、その箱には葡萄が入っていた。大粒のシャインマスカット三房。村上市の菅井農園の産である。ひと房を田町さんに、ひと房を歴史館の一部屋を間借りして集落支援員をしているМさんに分けた。残りのひと房を机の上に載せ、二粒三粒と口に運びながら
「また持ってくるかもしれないから削除はしばらくしないでおこう」と思った。彼女の言う通り「二、三人しか読んでいないから、なんの支障があろうか」と。