オッドアイTの猫とその一味第83話「エスケープルートは3本」

私のそんな様子をしっかり見ている者がいた。双眼鏡師である。往路我々がこの小屋に近づくのを見ていた同じ二階から私を見ていた。

「私はここに残ります。下界に戻ってコロニャに罹かって死ぬのは嫌なので」

さすが双眼鏡師、私が広げた手紙まで読んでいたようだ。出発のため表に回ると、さっきまで鎌を研いでいた管理人がいなかった。草刈りに出かけたか、ぐるぐる巻きにされてまた草むらに隠匿されたかだろう。幾度振り返っても、双眼鏡師は小屋の窓から我々を見送ることを止めなかった。好きなことをするのが一番良い、それは半猫も同じだ。胎内山を越え、扇ノ地紙に着くとようやく飯豊連峰北端の朳差岳が見えるはずだが、地神から先はやはり雲がかかっていた。

「右の尾根を下ればやがて梶川峰に着きます。そこまでは花も多く緩斜面ですが、そこから先は急です。そこを下って下って下り切れば暗くなる前に飯豊山荘に着くでしょう。見てのとおり目的とする朳差は厚い雲の中です。大石山から先、鉾立峰と朳差までは真冬の天気でしょう。3人に1人は凍死します。どうぞ途中で下界に下りてください。その最初の道がこの梶川コース、後は地神北峰の丸森尾根、大石山から分岐する足の松尾根の三本です。今ここを下らなくても道中熟考して大石山まで良くお考えください。下山する場合は水と食料を確認して不足であれば補充しますからどうぞ遠慮なく。無理して朳差まで同行する義理はどちら様にもありません。朳差は桃源郷だと聞いたとしても実際は単調な水汲みが毎日の仕事です。年中湧水が絶えない水場があるからです。そして朳差に行けば、いつ再び里に下りられるかは分かりません。眼下に見える日常世界、そこに戻るには燕か雲雀か紙飛行機になるしかありません」私は扇ノ地紙の倒れた標柱の上に腰かけて言った。

「やりたいことをやれるのが人間の特権です。猫なんかはやりたいようにやっているようでもけんかをしたり昼寝したりぶらぶらしたりがせいぜいです。私は人間になったら本当に好きなことをやりたいのです。それは退屈まぎれのぶらぶらでないやつです。今このまま山を下りても半猫にできるのは十日に一度の郵便配達か探偵です。あとはぶらぶらするだけです。朳差に行って何年もすれば半猫が人間になると聞きました」

私はこの話を聞いて驚いたが、否定するほど長く朳差に住んではいない。

「では先ずは地神北峰まで行きましょう。この花はヒメイチゲ、この花はハクサンコザクラ」

私自身が人間であるために声を出して花の名を言いながら。