オッド・アイTの猫とその一味第61話「ゆり根と蟹と」

それにしても猪に何があったのだろうか。この二日のことだけれど、あれだけ従順に柴を担いでいた猪が、滑落して戻ってくると豹変している。通りがかった者全員にゆり根を食わせて眠らせて、お陰で半日を無駄にした、などとつらつら考えると、猫のことを思い出した。Tの猫は集落中に繁殖、蔓延して、今や最も自由な存在である。彼らが三種類に分けられることは以前書いたが、改めて云えば、猫好きがいる家に飼われて家猫となっている種類。それから、猫好きの家で餌を貰うことが習慣化して、家の中にこそ入れてもらえないが、その玄関等をねぐらとしホームグランドにしている者達。そして特定のねぐらを得られずTが運んでくる餌を主な食料としている者達である。家猫化した猫は避妊手術を受け、家から外に出られない環境にあるが、栄養状態が十二分で、丸々と肥えていて、回覧板を置きに行った際に二階の窓や台所にその姿を見ることがある。推定三軒で五匹。半分飼われ半分野良の身分は推定15匹。玄関に置かれた数個の段ボールがねぐらで、徘徊するTの猫に餌をやることが習慣化した結果、玄関に猫が集合し、段ボールが増えていったのだろう。その内、最初の者は家の中で飼われ、遅れて常連になった者は玄関住まいである。この分野の総数が最も多く、最も環境に恵まれている。つまり食事と寝床は保証され、且つ自由である。三番目の猫群は痩せていて、その上汚いのですぐ見分けがつく。Tの支給する食事以外に当てはなく、日々ねぐらを求めて放浪している。Tの食事だって、玄関型の猫もそれを目当てにやってくるから分け前は少ないのだ。私の家の周りに朝早くから深夜まで見受けられるのがこの種の猫だ。

私がなぜこんな事を考えたかというと、転落して転向した猪が、玄関型の、二足の草鞋を履く猫に重なったからだ。その時々の事情で生き方を変えていくのが自然なのかもしれないし、それが自由というものかもしれない、などと思っていると、今更急に眠気が襲ってきて、糸の先にゆり根を付けた釣り竿を持つ猪が見えた。私の簡易で粗末な食事の中に、そうやってゆり根を入れたのに気付かなかったらしい。毎日何か不都合な事が起こる。それは主観でしか生きられない人間の定めだから、すっと死ぬまで不都合が続く。

不都合になった私が目覚めた時、すぐ傍に人が集まってなにか話し合っていた。私が目を覚ましたことが分かると

「あら、やっぱり円陣を組んだ甲斐があったわね。ピンチの時は円陣を組むのに限るわ」とY似で猪使いの巫女が喜んでいる。

「あなたがゆり根を人一倍食べて寝ている間に猪は退治してこのとおり。私たちに廃材を担がせて運んで猪のための山小屋を作る計画をすっかり白状したわよ」

「それで私考えたの。計画通りに猪に行動させれば、猪のアジトに辿り付いて一網打尽よ。

そうすれば私、夏休みを取って寺泊に行くわ」

そう言ってY似で猪使いの巫女はポケットからカニコウモリの葉っぱの蟹券を出し、ゆっくりと数え始めた。猪にとってはヒメサユリで、Y似で猪使いの巫女にとっては蟹なのである。いずれも儚い幻だが、そんな幻こそ前向きに構える源があるようだ。

けれど、私には私の目的地があった。三国小屋に行って、壁に貼られている私の地形図を持ち帰らなければならない。