本当に用があるような人は来る様子がないので、私は結局朝と晩と尻尾を引っ張って、大体以上のような会話をした。犬が毛布で寝転んでいれば私は犬と犬小屋の中の鼻黒猫の間にしばししゃがみこんで話をした。
ある時鼻黒猫が言った。
「私を日記係にしてください」
「日記係というと」
「日記を書く係です」
「字は書けますか」
「字は書けません。字が書けないと日記係になれませんか」
「字が書けないと日記係になれません」
「では字を教えてください」
私は家から使わなかったカレンダーを探してきて、マジックでひらがなを教えた。鼻黒猫は頭だけ犬小屋から出して勉強した。
そしてコメリでノートとボールペンを買ってきた。鼻黒猫は日記を書く時も犬小屋から頭だけ出す。いくら軟体でも小屋の中では書けないようだ。暗いのかも知れない。私はノートが濡れないように小屋の前に段ボールを敷いた。ある時、変に曲がった日記帳を手で押して平らにしながら書いているのを見かけたので、小屋の入り口の脇に釘を打った。そしてここにぶら下げておけばぐしゃぐしゃにならないですと教えた。そしてそれはすぐ実行された。
「日記を見て添削してください。正しい字が書かれているかチェックしてほしいです」
とある時鼻黒猫が言った。
私は日記帳を開いてみたが、ひらがなばかりで読みにくかった。それに日付もない。
~あさからあめなのでずっとねていた。いぬもおなじだった。ときどきここをでてあめがおちてくるそらをながめた。いぬもそうした。だれかをきずつけずにかこをかたることはできないが、それをさけてかたることにいみはない。だからかたることはない~
~あさからてんきがよいのでずってねていた。いぬはそとでねていた。ときどきここをでてたいようがでているそらをながめた。わたしにかかわったひとたちがいまどうしているかをたずねるえなじーはありませんが、どこかでいきているとおもうことだけがわたしのいきるちからです~
鼻黒猫の前世が気になるところだが、とりあえず茶の間に掛けてあったカレンダーを外して犬小屋の前に下げ、今日という概念を教えた。
「夜が来て、また明るくなると次の数字の日です」
「こんなに夜が来ますか」
「毎日来ます。それからひらがなばかりだと読みづらいので漢字も覚えてください」
そういってカレンダーの裏にどんぐりと書いた。
「どんぐりのどという字は意味を持たない、どという発音だけを表す字です。これは表音文字といいます。これは土という漢字です。読み方はひとつでなくどと読んだりとと読んだりつちと読んだりしてひとつでありませんが、意味をもっています。意味はつちです。こういう意味を持つ字を表意文字と言います。だから漢字は表意文字です」
「どんぐりは好きです」
「最初は雨という字と空という字と朝という字を覚えてください」
「だいぶ難しいですね」
「だいぶ難しいですが便利です。あめと書けば空から降る雨か口の中でなめるあめか分かりませんが、雨と書けば空から降る雨に決まっています」
「空から降る雨を口を開けてなめた時はどっちのあめですか」
「空から降るのはこの漢字の雨です」
「なめる飴も教えてください」
「それはもっと難しいのであとにしましょう。あなたは飴が好きですか」
「そらから降る雨なら時々好きです」
「それはこっちの雨ですね」
私はカレンダーに書いた雨の字を丸で囲んで言った。それから犬用の缶詰の蓋を開けて皿に盛り、別皿に丸い粒々の食料も入れて、水も変えた。犬も鼻黒も補給している時に近寄ってこないのは空腹ではないからだろう。それでも朝には無くなっているから犬と鼻黒は適当に折半しているのだろう。もっとも鼻黒猫は自由だから日中は小屋を出てどこかで食べるのかもしれない。
~11月10日朝から雨はふらない。空にたいようもでない。こんなときはいちにちねている。いぬもねている~
~たいようもみないで雨もなめないでねているといろんなことをおもいだす。よいこともわるいこともおもいだす。わるいことはしぜんとおもいだす~
「どうですか。正しい字で正しいことが書いてますか」
「字は正しいです。書いていることが正しいかどうかは分かりません」
「それなら私に色のついた書き物をください」
「書き物というと」
「この色でない別の色です」
私は仕事帰りにコメリに寄って色鉛筆を買ってきた。
「これだこれですこれがあればなんでもかけます」
鼻黒猫は大変喜んで早速日記を広げて書き始めた。それを見た犬がなにか食べ物を貰ったのかと鼻黒猫に近寄り、色鉛筆の匂いを嗅ぎ、食べ物でないと分かるとまた毛布の上に戻った。この犬は前述したように十分でない犬なので、その後も鼻黒猫が色鉛筆でなにか書き始めると、やはりなにか食べているのかと思って近づいて匂いを嗅ぐ。しつこく嗅ぐ時もある。
「だいぶ書いたのでまたみてください」
「これはなんですか」
「それは犬です」
「とても足が長いですね。キリンのようです」
「キリンというのはなんですか」
「足の長い生き物です。首も長いですか」
「首も長くかけば良かったですか」
「いや、首も長くかけばキリンになります」
「これはなんですか。人間ですか犬ですか」
「それは私です」
「人間ですか猫ですか」
「さあ、そのどちらでもないです」
「でも体は猫で顔は人間ですよ」
「私は日記係です。だから日記係になりました」
「猫でも人間でもない日記係ですか」
「そうです。約束を果たせない人間は猫になります。ぐうたらな猫の生活が相応しいからです。ぐうたらな猫は約束をしません。約束をして苦しんだり苦しめたりしない猫はぐうたらです」
「これはなんですか。人間ですか」
「そうです。人間のあなたです」
「え、こんなに頭が大きくないし、もじゃもじゃの髪でもないです」
「いや、見たままにかきました」
「でも裸です」
「服は面倒だし、同じでもないし」
「でも靴だけは履いてますね」
「はい、それが人間の特徴です」