オッド・アイ Tの猫とその一味 第6回「言い訳ばかりが年をくった」

残念ながらここで夢は覚めた。もう一度夢に戻って猪を詰問したかったが、有耶無耶のまま眠ったようだ。続きを見たかもしれないが、一旦覚めて途切れた後の夢は恣意的だ。
「君はまるきり猪の姿態だけれど、中身は強欲な人間のようだね。煩悩の人だ」

そう言っても猪は媚びる必要のない人間だと判断しているのか、今度は横になって火事見物を始めた。腹ばいでは首を回せない。横になると丸い体は不安定で、こっちに向いたりあっちに向いたりするが、こっちに向く時は目に炎が映って赤くなる。質問に応えないので私は面白くなく、猪が反対側を向いた時に、その背中に尊徳の頭をあてがった。そうすると猪はこちら側に向けずに草むらばかり見ていることになる。二度三度、こっちに寝返ろうと体をゆすっていた猪であったが、それができない訳に気づき

「君はこんなことをして面白いのか。小人閑居して不善を為す、だぞ」

猪に小人と言われて益々不快になったので、毛をむしってやろうと近づくと、背中に数字の焼き印があった。猪は気配を感じて跳び上がるようにして立ち上がると、ピューと登山道を走って逃げていく。残された尊徳の頭を拾い上げて立ち上がり、後ろを向くと燃えていた山小屋もなく、D6さんも征平さんもいない。猪を焼いていたYもいなくて、私は収蔵庫の中で尊徳の頭を膝に置いて座っていた。そして19571001という背中の数字がいかにも恣意的だと私は思った。私の誕生日だから。恣意的な夢に夢の意味はない。
 山小屋を見ると、そこに泊まらなくても中を見るようになった。小屋のトイレを借りる風を装って、巫女、あるいは桃田を探す。何度も泊まっている門内の小屋も中の様子は分かっているのに、占いをしている巫女がいるのではと覗いてしまう。もしそれがYであるなら、本物のYは一緒に登ってきてテントの中だから、巫女は偽物のYだということになる。偽物というのは失礼だからY似の巫女ということになる。越後駒でも小屋を覗いた。ここは豪雪対策ためか屋根の高い作りになっているので、桃田がいるかもしれないと思うのだ。置かれた大型ザックが一つ、中ノ岳までサブバックでピストンだろうか。予選敗退した桃田がラケットを振り回しながら稜線を歩く姿が浮かぶ。人生には落とし穴がつきもの、落ちた穴からは這い上がらないといけない。這い上がればまた風の吹く稜線をひとりで歩いてゆける。

 バンダナ嫌いのはずの田町さんがバンダナをしていた。収蔵庫の中で何かを手に持って仔細に眺めている。机には折り畳んだ洗濯物ハンガー(丸くて沢山の洗濯ばさみが付いてるタイプ)と包丁(木羽石置屋根の木羽を作る時の鉈にも見えた)、それに石臼も載っている。手に持っている物を布で磨き始める。尊徳の頭のようだが、はっきり分からない。近付くと気付かれそうで、何をするのか最後まで見届けたいと思うので、階段の途中でじっとしている。もしかして額に押された猫のスタンプのせいか、思う。額のスタンプがそれから消えたか消えないか知らないが、バンダナをしているということは消えないということだ。だからその消えない猫の足跡が彼女を誘導してこういうことをさせているのか!
「あらくたらさんみゃくさんぼだい」と大きな声で念じ始めたので、足音を気にせず近づくと、尊徳の頭を蠅叩きで叩いている。蠅叩きは多分私が百均で買ってきたものだ。収蔵庫に持ってくる必要も記憶もないから、このために彼女が事務室から持ってきたのだろう。しかし、尊徳の頭を木魚に見立てたつもりでも、プラスティックの蠅叩きではペタペタとしか音が出ない。それが面白くないのか、そのうち自分で「ぽくぽく」と声を出した。つまり「あらくたらさんみゃくさんぼだいぽくぽく」を繰り返す。尊徳の頭に傷は付かないだろうが、やっていることは異常だから、声を掛けて我に返させてやろうか、それとも納得いくまで経を唱えてもらって降りてくるのを事務室で待っていようかと思案していると、どうも田町さんではないような気がしてきた。机の下に見えるふくらはぎが太い。岳人女性にありがちなデカビタC型だ。大体田町さんは短パンを履かない。Yだと分かると、なるほどと私は納得した。巫女修行、あるいは巫女としての天啓を受けるために尊徳の頭を叩くことが必要なのだと。だから猪を使って手に入れようとしたわけかと謎が氷解したように思えたが、山小屋まで猪が引っ張っていった尊徳はどうなったのか。火事で行方が分からなくなったのか、私が回収してここに戻したのか。すると巫女が振り返った。
「ではお聞きします。北海道の山に登ったことはありますか」
そう言う巫女は確かにYだが、私を見て驚く様子はない。鉢巻も山の土産のバンダナのようだし、Tシャツも見覚えのあるモンベルだ。

「北海道の山に登ったことはありますか。分かりませんか」

「ああ、ありません。北海道の山は登ったことがありません」

「ヒグマが怖いからですか」
「いえ、遠いからです」
「なるほど、言い訳ばかりが年を喰いましたね」
「九州の山は登ったことがありますか」

「いえ、ありません」
「昔の友達のことを思い出すからですか」
「いえ、ただ遠いからです」
「なるほど、去る者は日日に疎し、ですね」
雷が鳴った。ドカンと落ちる音がして外で待っている人たちが悲鳴を上げて逃げていく。巫女はガラス窓を開けて空を見上げ
「ミッキーみたいに一ヵ所しか出ないといいのに」とつぶやいた。
これからこの山小屋が火事になってD6さんと征平さんが登場してと、私は予言者のように巫女に教えようかと思ったが、小屋に居るのは私一人、慌てて外に出ると、巫女とその後ろに猪一匹、そしてD6さんと征平さんらしき人も草原の登山道をギルダ原の方に向かって歩いていくのが見えた。ギルダ原の向こう、天狗の鼻のような北股岳を越えれば梅花皮小屋。そこでまた三人と一匹で一芝居うって大儲けする段取りかと、旅芝居一行を見送った。