オッド・アイ Tの猫とその一味 第五回「過去のことしか占えない」 

小さな誤算はあっても大きな破綻は無く日常は過ぎる。時間と能力が許す範囲の仕事をこなして夜を迎える。
 猪が何かを引きずって登山道を歩いている。それは見覚えのある風呂敷にくるまれていたから収蔵庫に入れた尊徳の頭だと分かった。私の留守中に田町さんをたぶらかして持ってきたものだろう。それにしても彼女はなぜ猪ごときに騙されたのだろう。そんな疑問はあるけれど、このままみすみす盗まれるのを見ているわけにはいかないので猪の後をつけた。登山道は大概一本道で追跡は容易だ。それに飯豊のそれは道の脇が深い笹薮なので、追跡の気配を感じて振りむこうとしても、猪にとっては体を横にする道幅がない。猪は不安であっても先を急ぐしかないのだ。やがて山小屋に着くと猪はやれやれという風に横になった。歴史館から引きずってきたとしたら大変な労力だし、見たところ水筒も持っていない。所々の水場で水を飲んで登ってきたのだろう。そんな難儀をして運び上げた尊徳だとしても、これは歴史館の預かり物だ。貰うか返すかはまだ分からないが、預かり物を失くすわけにはいかない。だから、尊徳の頭が依頼者の手に渡った時点で取り返せば猪の責任にはならないだろう。小屋の水場で水を汲んできて横になった猪に飲ませていると、小屋の裏の方から声が聞こえてくる。猪を操る黒幕かなと思って見に行くと、五人六人の行列ができている。先頭の人間が窓をよじ登って中に入ると窓はパタンを閉まった。
「なにを待ってるんですか、みなさん」
「占いですよ、巫女さんの。山占い」
「山占い?」
「あら、知らないでここに来たの。今どこの山に行っても、ここの山小屋の山占いの話でもちきりよ」
「もちきり!」
「せっかくだからあなたも私の後ろに並びなさいよ」
窓が開くと一番前の人が靴を脱いで窓から小屋の中に入ろうとする。肩の高さ位の窓なので後ろの人が持ち上げて中に入れる。そして脱いだ靴を渡すとパタンと窓が閉められた。ガラス越しに中を覗くとYが神妙な顔付で正座し、今入った人と対面していた。
「なにを占ってもらうんですか」
「人のことは分からないけど、私は次の選挙に出るかどうかね」
「え!山に関係ないですね」
「山でするから山占いよ。今まで登った山とかこれから登りたい山とか聞いて、それで占うみたいだから山占いかもね」
Yは黄緑のポロシャツを着ている。胸の辺りに黒いのは多分阿賀北山岳会という刺繍で、これは会のユニフォームだ。ズボンも多分山行でいつも履いている物で、これではさすがに巫女らしく見えないと思ったのか、申し訳程度に頭に布を巻いている。これもどこかの山小屋で買ったバンダナの類だろう。脇に置いたストック、これも昔から愛用している物だが、ストックを一本持つとそれを相手の頭の上で二回三回振り回してから、今度はその持ち手の方で肩、そして頭もコツコツと叩き始めた。全然投資の要らない商売を始めたなと私は思った。そう云えば以前から山に来ると人の声が聞こえるような幻聴があるとか言っていたが、それを何かしら利用したに違いない。
「だいたい謝礼はどれくらいなんですか」
「気持ちでいいって話だけど、相場は一万ね。二万三万と出す人もいるらしいけど」
「へえ」と驚いて、並んでいる人を改めて数えてみる。ひとり二、三分ストックで叩いて一万円、今並んでいるだけでも五六万、朝からこの行列だとしたら一体いくら稼ぐのだろうか。それで猪狩りから商売替えしたのか。それにしてもさっきから窓越しに見ている私に気付かないのは、本当にYだろろうか。このまま並んでいれば私の番になって、近くで見ればYかどうかはっきり分かるし、Yの反応でも分かるが、山で並ぶのも馬鹿馬鹿しいような気もするし大体占いを信じていない。でも後ろにまた何人も並ぶ人が出てきているので、ここで抜けるのももったいないし、Yの仕事ぶりももう少し見ていたいような気もしてくる。今向き合っている人の占いが終わったらしく、Yは何かを客と自分の間に出すと、客はその中に紙幣を入れた。何枚入れたのかは分からなかったが、この小物入れみたいな物は琵琶型で、確か伸栄さんから最近土産で貰ったものだ。その中にはエコバッグが入っていたと思うが、それを抜いてこんな風に活用しているのかと感心する。その客が部屋を出ていく時には次の客が窓から乗り込もうとしていたが、この時稲妻が光って、ビリビリドカンと近くに落ちた。するとそれが解散の合図でもあったかのように並んでいた客も、中に入った客も一目散にどこかに逃げていなくなった。占い師はガラガラと窓を開けて外を見ながら、まだ続く稲妻も雷鳴も気にする風でなく
「雷もミッキーみたいに一ヶ所しか出ないといいのに」とひとりごとを言った。
 ああ、やはりYだと私は思った。門内で雷にあい、越後駒でもまた雷が鳴り出した時、確かにそんなことを呟いていたのを鼻で嗤って聞いた覚えがある。私は表に残しておいた猪と尊徳の頭の事が急に気になりだした。雷に驚いて一目散にどこかに逃げ、一緒に尊徳の頭も引っぱっていったかと心配したが、猪というのは雷を怖がらないようで、尊徳の頭を枕にして寝ていた。しかし、私に気付いたのか考え事でもしていたように横向きになって
「一番山芋、二番も山芋、三番四番も山芋だが、山芋掘りは骨が折れる。だから山芋を掘ってる途中で出てくるミミズも食べる。沢山ミミズを食べると山芋掘りの目的も忘れて腹いっぱいになる。だからヒメサユリは大好きだ。ぷんぷん良い匂いのする地面に鼻をグイッと突っ込めば鼻の先が球根にぶつかる。それを牙に刺して持ちあげれば良いだけだ。昔は雪が深くて高い山には登れなかったが、今は少し掘れば地面が出てきて、そこのミミズを食料にして、掘った穴は雪洞になって休憩もできるしビバーグもできる。そして夏になるまで稜線に着いて夏いっぱいユメサユリの球根を食べる。飯豊の夏は最高だね」
 Yの手先になっている割には一向改心した様子でない猪だったが、山小屋の玄関の戸があいてYが出てくると、横回転して立ちあがって指令を待つ態度になった。しかしYはそんな猪にも尊徳の頭も目に入らない風でまた中に入って戸を閉めた。雷が止めばまた客が来る。それまで今日の稼ぎを数えておこうという算段なのだろう。私は裏に回って、その様子も見たいと思ったが、まずこの猪を詰問することにした。
「君らがこんな調子でヒメサユリの球根を食っていたらいずれ飯豊のヒメサユリはなくなってしまうぜ」
 「一向構わないぜ。構うもんか」
「飯豊のヒメサユリが絶滅する原因が猪だと分かれば君らの首には賞金が懸けられ、Yみたいにひと夏を飯豊で過ごしたい登山人たちがわんさか飯豊に押し寄せ、君らはあっという間に全滅だぜ」
「懸賞というのは大体どれくらいだろう」
「一匹一万円くらいだろう。尻尾だけ切って役場に持っていくのさ。肉はそのまま天日干し、尻尾のない毛皮は山小屋に泊まる登山者の敷毛布になる」
そう言ってから猪の尻尾に目をやると、それはなぜかしんみりと小刻みに揺れていた。猪も自分の尻尾を見て
「風に吹かれて揺れているだけだ。怖いわけではない」
「どうだろう、ヒメサユリの球根掘りなんてあこぎなことはもうやめて麓に下って地道に山芋でも掘ったら」
「君らは一体植物と動物とどっちが大事なんだい。植物のためになんで俺らが殺されなきゃならないか全然理解できない」
 私は尊徳の頭を猪の傍らから拾い上げた。こんな理屈を言うのは尊徳に感化されているように思えたからだ。
「ところで君はどこからこれを調達してきたのか、そしてここまで運んでどうしようというのか」と本題に入った。猪はじっと正面を向き、その両の目は赤い。異様に赤い目は私に向けられているわけではなかった。振り返ると山小屋が燃えていた。Yが登山道を脱兎のごとく走り去るのが見えて安心する。多分さっきの雷が小屋のどこかに落ちて、そこから出火したものだろう。ゴロゴロとリヤカーを押してきたのは前村長のD6さんだ。リヤカーの上にはポンプが載っていて、消火活動をするらしい。D6さんは放水しながらどんどんと小屋に近づく。そこにもうひとり出てきて、放水を手伝うのかと思ったら「ホースが焼けるからあまり近づくな」と叫んでHさんの邪魔をしている。
「火事一回に役立てばその使命は終わり」とD6さんも叫んで譲らず、リヤカーは前に後ろに、小屋に近づいたり離れたりしながらも放水を続けていると、そこにYが竹竿に猪を三匹刺して戻ってきた。多分近くに落とし穴を作っていたのだろう。燃え盛る炎に一串の大きな団子のようになった猪をかざすと、チリチリチリと毛だけがすぐ燃えて、猪三匹のすっきりしたシルエットになって映し出された。ヒメサユリを食べたいだけ食べていると思っていたが、そのシルエットは意外と細く、桃源郷を目指して登ってきた彼らの実態が分かったような気がした。リヤカーは前後しながら放水を続けていたが、ホースを燃やさないようにさっきから後ろに引っ張っているのはどうも征平さんのようだ。西俣で亡くなってもう9年になるが、こういう時はやはり復活するのかと私は感心した。炎に照らされて顔の色がよく分からないが、生前同様浅黒いならあの世でも山登りをしているということだ。D6さんの禿げ頭は熟れた鬼灯のように丸ごと赤かった。熱せられて実際赤くなっているのか、禿頭の肌に炎が映って赤いのか。それにしても、放水の水はどこから引いているのか。ちょろちょろの水場ではどうにもならないから、近くに沼か池塘かあるのかと水源に続くホースの先を見ると、それは草むらの中に消えて、燃え盛る炎で起きる風でその草むらも揺れていた。
「こいつ、猪ではないな」とふと思ったのは、丸焼きにされている仲間を見る目がいっこう冷静で、このドタバタ劇を埒外から眺めている様子だったからだ。時々地面を嗅いだりもする。